第参拾柒話 真円の月がのぼる空
草木も眠る〈うしみつ時〉、潮見凪(しおみ・なぎ)は緊張と戦っていた。
その昔、日本では、一日の時刻を、十二支、すなわち、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥子で表わしていた。とはいえども、百年前と今とで、一日の長さに違いがあるべくもなく、各干支が意味する時間は、一日・二十四時間を十二で割った、現在の時間で言うところの二時間に相当し、例えば、子(ね)の刻とは、今の時刻の二十三時から一時までに相当するので、午前一時から三時までが〈丑(うし)の刻〉となる。さらに、〈一つの刻(いっとき)〉を四等分し、午前一時から一時半までの三十分が〈丑一つ〉、一時半から二時までが〈丑二つ〉、そして、二時から二時半までが〈丑三つ〉に当たる。
すなわち——
凪は、子一つ、午後十一時には蒲団に潜り込んだものの、丑三つ、午前二時を過ぎてもなお、眠れぬまま、蒲団の上で悶々としていたのであった。
「あぁぁぁ、眠れん。じゃけんど、体ば動かせば、疲れて眠くなるかもしれないけん、ちょっと走ってこようかね」
だがしかし、志賀島に住むジイジからは、「丑三つは、妖気が強くなって、妖怪とかお化けが出るけん、外ば出歩くんじゃなか」と子供の頃からしょっちゅう注意されてきた。
丑三つは、方角に当てはめると〈丑寅〉、すなわち〈鬼門〉なので、空間面において、幽鬼の出入り口に相当する丑三つは、時間面においても、陰気が最も強くなる時刻なのだ。
「じゃけんど、ここって神様の世界やけん、お化けに誘拐される事もなかよね?」
祖父の言葉が頭の片隅に残っていたので、夜の外出に躊躇いをおぼえつつも、凪は、数時間後に控えた試合に対する不安と緊張を紛らわす為に、結局、夜に駆ける事にしたのであった。
小学生の頃からそうなのだ。
凪は、体の大きさに似合わぬ蚤の心臓の持ち主で、特に大事な試合の前になると、眠れなくなったり、お腹を壊したりする、いわゆる、プレッシャーに弱い質であった。
プレッシャーを感じるのは、裏を返せば、対象を非常に大切にしている、という思いの強さの反映なのだ。
しかし、どれほど想い焦がれていようとも、前夜眠れぬまま翌日を迎えたら、結局、ベストの体調で試合に臨む事ができないのは自明の理であろう。
それでは本末転倒である。
だから、凪の課題は、いかに緊張し過ぎないかであった。
しかし、緊張で眠れないのは、無意識の領域の問題なので、凪は、体を疲れさせて強引に眠くなろう、という考えに至った次第なのである。
かくして、宿を出た凪は、泊っている「舞凛館」から見て北東の方角に位置している、試合前の集合場所である「大洗マリンタワー」をゴール地点に据えたのであった。
大洗マリンタワーは、昭和末期の昭和六十三年十月に開業した、高さ六〇メートルの展望台で、開業以来、大洗町のメルクマールの一つになっている。
凪は、宿から南東に向かってまっすぐ進み、砂浜まで下りてから、自分が主戦場とする浜辺を往復し、しかる後に、マリンタワーに向かった。
そして、これは全くの偶然だったのだが、舞凛館から見てマリンタワーは鬼門に位置している。だから結果的に、凪は、陰陽道で言うところの〈方違(かたたがえ)〉に似た行為をした事になった。
方違とは、向かうべき場所が忌むべき方角に位置している場合に、いったん別の方角に行ってから、その後、別の場所から目的地に向かう事によって、禁忌の方角を避ける方法である。つまり、凪の場合、宿から南東にある砂浜に行ってから、浜の北に位置している大洗の塔に向かった事が、方違となったのだ。
やがて、神使である亀だけを伴った凪が、マリンタワーの下に到着したのは、現代の時刻で言うところの〈二時五十四分〉、すなわち、虎一つまであと数分という時点であった。
塔の天辺を仰ぎ見ようと思って視線を空の方に向けた時、その夜の月が凪の視界に入ってきた。
「今日って、満月だったんだ……」
藍色に染まった夜空には、黄金色の真円の月が輝いていた。
凪は全く把握していなかったのだが、師走の〈望〉、すなわち、満月になるのは〈二時五十四分〉、まさに、凪がマリンタワーの下に到着した時刻であった。
この日この時の真円の月は、太陰暦における令和五年最後の満月である。
師走の満月は、欧州や北米では「ウルフ・ムーン」と呼ばれている。この呼称は、この時期の寒い夜に、空腹の狼の餌を探し求める遠吠えが聞こえる事に由来するらしい。ちなみに、同じ欧州でも、ケルト文化圏では「ステイ・ホーム・ムーン」と呼ばれているそうで、これは、寒く狼が吠える夜には家にいろ、を意味しているとの事である。
その「ウルフ・ムーン」を眺めながら、凪は、吠えるように叫んだ。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ! 真ん丸お月さん、よう見ちょって、ウチは絶対に勝って、現実世界に戻ってやるけん」
この時期の満月の欧州における呼び名を知らなかった凪ではあったが、月に向かって思いっきり叫びを上げるや、ふっきれたような顔になり、踵を返すと、本拠地としている宿に戻って、試合が始まるまでの間、少しでも身体を休めるべく、〈ステイ・ホーム〉する事にしたのであった。
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