第参拾伍話 ポイントガードとボートレーサー
小学生の頃にミニバスを始めた、大阪の住ノ江の磯辺愛海は、中学に入学するや、バスケットボール部に入部した。中学で本格的にバスケを始めて以来、愛海は、家族と一緒に住之江のボートレース場に行く事は殆ど無くなり、また、釣りに行く機会も、小学生時代に比べると圧倒的に減っていた。
愛海は、小学生の頃から〈ポイントガード〉一筋であった。
ちなみに、この場合のポイントとは、点を取るという意味ではなく、〈分岐点〉の事で、つまるところ、ポイントガードとは、チームの司令塔を担うポジションなのである。
このポジションは、他のポジション、例えば、センターやパワーフォワードとは違って、必ずしも高身長が要求される分けではない。だから、今現在〈一四三〉センチメートルの愛海が、ミニバスを始めた小学生時代にポイントガードになったのは、自然な流れであった。
だが、たしかに、身長こそ低かったものの、愛海の運動神経や運動能力は抜群で、特に、バランス感覚や敏捷性に優れ、そのアジリティとスピードで、自分より背が高い選手達を翻弄し、それゆえに、小学生時代から大阪でも有名なプレイヤーであった。そしてさらに、肌が浅黒い愛海は、「住之江の黒豹」という異名で呼ばれさえしていた。
しかし、七月の半ばに行われた中学最後の夏の地区大会の四回戦において、愛美は、相手チームの戦術で、一七〇センチ台の選手達に取り囲まれ、まったく持ち味を出せないまま、完全に動きを封じ込まれてしまった。そして、府大会への進出叶わず、不完全燃焼の状態で、愛海の中学バスケは〈地区〉で終わってしまったのだった。だから、敗戦直後に愛海は誓ったのだ。高校に進学したら、必ず〈汚名挽回〉しよう、と……。
それから、 あれっ!?〈名誉返上〉だったっけ、と思いながら、他の試合を観戦してゆこうと、愛海が観客席に独り上がった時の事であった。
「ほんまがっかりや。アジリティ〈神〉で、平面無双の〈住之江の黒豹〉ゆうても、完全に評判倒れやったわ。所詮、一四〇センチ台じゃ、大っきな選手達に上から被せられたら、何もでけへん。これまでは、ギリなんとかなってきたかもしれへんけど、あれじゃ、高校じゃまったく通用せぇへんわ。まっ、うちの高校は、黒豹の獲得はパスやな。てか、今日の試合観て、あのコ、獲ろう思う高校なんて、一つもあらへんちゃうか?」
どこの高校のスカウトかは分からないが、自分の事を噂しているのは明らかであった。一四〇センチ台のポイントガードは、この地区には愛海以外には一人もいないからだ。てゆうか、そもそも、そのスカウトは「住之江の黒豹」という愛海の二つ名を出していたではないか……。
愛海は、残りの試合を観ぬまま、試合会場を後にした。
「一四三センチのバスケ選手か……。どないせいっちゅぅねん」
涙混じりに独り言を呟きながら、家の敷居を跨いだ時、愛海は、ちょうど家を出ようとしている父親とすれ違った。
「オ、オトン…………」
「………………。マナ、どや、これから競艇場ゆくか?」
「う、うん……」
かくして、愛海は、久しぶりに、父と一緒にボートレース場に足を踏み入れたのであった。
その日、住之江のボートレース場で開催中だったのは、「2023モーターボートレディスカップ」、すなわち「ヴィーナスシリーズ」の第八戦であった。
「今日は、女子リーグの開催やな」
ヴィーナスシリーズとは、女子のみ出場の大会で、二〇一四年、約十年前までは「女子リーグ戦」と呼ばれていた。だから、往年の競艇ファンの愛海の父は、つい、「競艇」とか「女子リーグ」といった昔の呼び方を今なお使ってしまっている。
「へえ、そうなんや……」
先の敗戦と、心無い言葉のショックから未だ回復できていない愛美は、上の空で、父親の言に生返事してしまった。
「おっ! レースが始まるで」
やがて、白、黒、赤、青、黄、緑と色とりどりの競技服を着た選手が乗った艇は、赤白二色のトンガリ帽子のようなブイに向かって走ってゆき、そこで、水飛沫をあげながら艇の向きを急激に変え、今度は、逆側のブイに向かってゆく。
水面で繰り広げられている船の競い合いは、一周では勝負が決まらず、抜きつ抜かれつの接戦を見せている。
「な、ナンやこれはっ!」
小学生の頃に何度も競艇場に足を運んでいたから、生でレースを観戦したのは初めてではない。だが、幼い頃は、家族と一緒に、ただ競艇場に来ていたに過ぎなかった。だから、こう言ってよければ、初めて真剣に目の当たりにする事になったレースの激しい展開に、愛海は、胸が焦がれる程の熱さを覚えたのだ。
気付くと、愛海は、Tシャツの真ん中、胸の辺りを鷲掴みにしていた。
「あ、熱い、熱いよ」
やがて、レースが終わると、インタビューと、勝利選手自身によるレース展開の振り返りの為に、勝った選手が現れた。
出てきた女子選手は、非常に童顔であった。
「オトン、なんか、めっちゃ若そうやけど」
「このヴィーなんとか、めんどやな、女子リーグ戦は、新人選手がぎょぉさんおって、十代の選手も出てるんやで」
愛海の父は、選手名鑑で勝利選手の情報を確認した。
「おっ! 今、勝ったのは、マナよりもちょっと年上、十六歳やな。身長は一四八、マナと同じくらいちゃうか?」
「ほんまっ!」
「ほんまでっせ。たしか、女子の平均は一五六か七くらいのはずやけど、一四〇台の選手もぎょぉさんおるやろ、知らんけど」
「ちっさいのに、なんでプロでやってけるんや?」
「そりゃ、体重が軽ければ軽いほどスピードが出るからやろ。競艇は小柄なほど有利やからな」
「ちっさい方が有利な競技、そんなんがあるんかっ!」
でもな、最低体重ってのがあって、体重が軽い選手は増量しなくちゃいけないんやで、といった父親のウンチクは、もはや愛海の耳に入ってはいなかった。
天啓であった。
多くのスポーツがデカいほど有利なのに、小柄な方が得、そんなんがあるなんて……。
「オトン、アタイ、中学出たら、競艇選手になるでっ!」
「な、ナンやてっ!」
以来、愛海の生活は、競艇漬けの毎日になった。
そして、「第一三六期」のボートレーサー養成所の試験を受験し、十一月半ばの一次試験、十二月半ばの二次試験・三次試験を経て、年が明けた一月の上旬、合格率約四〇倍の難関を突破し、磯辺愛美が合格通知を受け取ったのは、一月二十一日、愛海が左右(ま)界に召喚された、その数日前の事であった。
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