第弐拾参話 七海、夜に富岡八幡宮を詣でけり

 パシフィコ横浜で催された釣りフェスの後に、横浜駅近くのアニメショップを覗いた後で帰途についた濱辺七海(はまべ・ななみ)が、地元の門前仲町に戻ってきたのは、夜の八時少し前、その時刻には、東京の空はすっかり藍色に染まっていた。


 一月半ばにおける、深川の富岡八幡宮の閉殿時刻は、平日が十六時、土日祝が十七時なのだが、その時刻以降は、本殿の扉こそ閉じられるものの、その外に賽銭箱が設置され、参拝それ自体は二十四時間可能となっている。

 それゆえに、七海は、学校や塾の帰りしな、自宅に戻る前に、毎日欠かさずお詣りをしていた。

 そういった次第で、一月二十一日の日曜日も、いつものように、七海は、横浜からその足で、永代通りに面した大きく赤い鳥居を通り抜けたのであった。


 夜間照明がある境内には、未だ参詣者の姿も認められるし、また、車や人の通りが多い永代通りが、本殿と目と鼻の先という事もあって、富岡八幡宮は、暗く寂しい、といった印象はない。だから、中学生女子の独り詣りとはいえども、七海は、未だ一度も身の危険や不安を抱いた事などなく、夜にも、安心して、神社を詣でる事ができていたのであった。


 かくの如く、毎日、八幡宮で参拝している中学三年生の七海が、八幡様に祈願しているのは合格祈願ではなかった。たしかに、八幡神は〈必勝祈願〉や〈諸願成就〉の御利益をもたらしてくれるのだが、勉強の成果である合格は、運否天賦や神様の力に頼る事無く、自分の努力と実力によって勝ち取るものだ、と考えているので、合格それ自体を神様に願うつもりはない。


 そんな七海の八幡様への願い事が二つあった。


 第一は、海神である八幡神への〈釣行成就〉の祈願であった。

 七海が釣りに興味を抱くようになったのは小学六年生の頃、世界中で感染症が蔓延し、〈おうち時間〉を余儀なくされていた時期に、父の書斎にあった、昭和の釣り漫画を手に取った事が切っ掛けであった。

 その頃は実際に釣りに行く事はできない状況下にあったので、ネットで釣りの事を学んだり、釣りの動画を視聴し捲っていたのだが、そのまま一度も川にも海にも行かないまま、七海は、知識偏重の〈丘アングラー〉になってしまっていた。

 だから、高校生になったら、リアルに釣りデビューができる事を祈願してきたのである。


 そして第二の願い、それは、昨年の十二月の初めからの祈願なのだが、出雲で行方不明になってしまった塾の先生、神津海斗の無事であった。

 富岡八幡宮では「家内安全」や「社内安全」などの身内の安全や、「無病息災」「病気平癒」といった身体の無事や回復などの願意も受け付けている。

 塾の先生を身内に含めてもよいかどうかは分からないけれど、大切な人なので、〈身内〉とみなしてもよい、と七海は解釈していた。

 海斗先生は、もしかしたら将来、〈身内〉になる可能性もゼロじゃないし……。


 他の参拝者が背後に並んではおらず、手短に参拝を終えなくては、という正月あるあるなプレッシャーを感じる事が全くなかったので、この夜の七海は、いつも以上に時間をかけて念入りに祈願する事に決めた。


 この時、七海はふと発想してしまった。

 神社の参拝の作法は〈二拝二拍一拝〉だと言われているけれど、今夜は〈八拍〉にしてみよう、と。


 出雲大社では、〈二拝四拍一拝〉が正式な参拝作法らしいのだが、年に一回の「例祭」の時だけは、拍手を〈八〉回打つそうだ。それは〈八〉という数字が〈無限〉を意味し、それゆえに、八回の柏手とは神を限りなく讃えるものだからだ。

 ちなみに、神社において手を打つ事を「魂振(たまふり)」と呼ぶそうなのだが、魂振は、手を叩いた時にでる音によって、その時その場にいない神の御霊を動かし、参拝者の前にまで神様を招き寄せる事を目的としているらしい。


 中学生の七海は、高額のお賽銭を奮発する事ができないので、いつもは、語呂合わせで、〈いいご縁がありますように〉という気持ちを込めて、〈一一〉円を賽銭箱に入れている。だが、この日の七海は、一円玉を切らしていたので、財布にあった八枚の五円玉を入れて、〈八〉、すなわち、無限に〈ご縁がありますように〉という気持ちを込める事にした。


 いつもと違って、〈八〉回の柏手に、五円玉〈八〉枚のお賽銭で、夜の〈八〉時に、〈八〉幡様にお祈りする、〈八〉尽くしの今夜の参拝は、なにか特別感があるわね、と思いながら、七海は、いつの日にか釣りができる事と、海斗の無事を強く願った。


「南無八幡大菩薩、願はくは、釣行成就、さらに、海斗と再会させ給え」

 この那須与一の台詞をアレンジした祈祷を七海が八度くりかえした後で、少女の頭に〈声〉が響いてきた。

(乙女よ。そなたの願い叶えてしんぜよう)


 その直後、七海は意識が朦朧としてしまった。

 今の自分の状態が夢か現か分からず、現実における自分の存在が希薄になってゆくような奇妙な感覚……。


 はっ!

 意識が何処かに連れてゆかれそうになった七海は、急に怖くなって、八幡宮から急ぎ出よう、と永代通りに面している鳥居の方に向かった。


 そして――

 本堂を背にし、参道の左側を歩いていた七海は、鳥居を出るべく、左足を踏み出したのである。

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