第弐拾話 大きな潮騒の下で

 横浜港に近接した「横浜みなとみらい21」に位置している「横浜国際平和会議場」は、会議施設のみならず、ホテルや展示ホールから成る複合施設で、通常「パシフィコ横浜」と呼ばれている。ちなみに、〈パシフィコ〉とは、〈平和〉を意味する形容詞〈パシフィック(Pacific)〉と、〈会議〉を意味する名詞、〈コンヴェンション(Convention)〉の接頭辞を組み合わせた造語で、強引に日本語に置きなおした場合〈へいわか〉となろう。


 令和六年の一月半ばの金・土・日に、そのパシフィコの展示ホールにて、日本最大規模の釣り道具の祭典「釣りフェスティバル2024」が開催されている。


 天起予報とは違って雪が降らないのにホッとしながら、門前仲町の家を七時に出た濱辺七海は、日曜日の二十一日の八時半頃、この釣具イヴェントの最終日に参加すべく、横浜駅から徒歩で会場に向かっていた。


「たしかにさ、スマホで調べたら、門仲で東西線に乗って、みなとみらい駅からパシフィコまで歩くってのが最短ルートって結果が出たけど、横浜からたった一駅で、二〇〇円って地味に高いのよ」


 門前仲町駅から『東京メトロ』で渋谷駅まで移動し、渋谷駅で「東急東横線」に乗り換えれば、その後、乗り換えせずに、みなとみらい駅まで行ける。しかし、同じ列車なのに、横浜駅から先は「みなとみらい線」になるので別料金となり、その「みなとみらい線」の初乗りは、切符で〈二〇〇円〉、ICでも〈一九三〉円と、割とお高いのだ。

 だから、肌寒く、たしかに雨が降ってはいたものの、横浜駅から会場に徒歩で向かう事にしたのである。

 ついでに言うと、メトロの最寄りである門前仲町駅からではなく、JRの最寄りである越中島駅で乗車し、JRだけで横浜まで向かえば、切符で〈五〇〇〉円、ICでも〈四九一〉円と、東京メトロと東急を乗り継ぐ場合よりも、〈二〇〉円安いので、合わせれば、片道で〈二二〇〉円も安くなる。


「ぶっちゃけ、中学生にとっては、往復〈四四〇〉円って大きいのよね。歩けば、ウォーキング・アプリの歩数も稼げ、受験勉強中心生活の今のわたしには、運動不足の解消にもなるし、ウィンウィンなのよ。たとえ、雨が降ってはいてもね。まあ歩いている間も『キクタン』でも聴いていれば、時間も無駄にはならないしね」


 そう独り呟きながら、七海は再生ボタンをタップしたのであった。


 とちのき通りを抜け、国際大通りとぶつかったところで、階段を上がって、観覧車の方に向かって歩き出すとすぐに、ギザギザで独特の形状の屋根を持つ建物が、七海の左側に見えてきた。

 その展示ホールの個性的な屋根は、横浜港に押し寄せる〈波〉をモチーフにしているそうだ。


「波の下、あの会場の白い屋根を水面って考えるのならば、たとえてみると、展示会場は海の底で、そこで行われる釣りのイヴェントって、竜宮城の宴みたいね」

 そんな感慨を抱きながら、七海は、二階から展示ホールに足を踏み入れたのであった。


 ホールAからDまで、長方形の展示ホール全体を使って行われる「釣りフェス2024」では、三日に渡って、例えば、「メインステージ」では、様々なトップアングラー(釣り人)達のトークショーが、「釣りの学校」では、色々な釣り講座が行われる。そして、「キャスティングコーナー」では、プロによるキャスティング(投げ)の実演が行われ、フェスの参加者はキャスティングの体験ができる。

 さらに、小腹が空いた時の為の「釣りめしスタジアム」という名のフードコーナーもあって、そこでは、日本各地のお魚グルメが楽しめもするのだ。


 それよりなにより、釣り道具マニアの七海が、このフェスの中で最も楽しみにしていたのは、釣り道具メーカーの新作の展示であった。


 七海がネットで調べたところ、今、「フィッシングショー」として行われているイベントは、二〇一五年に「ジャパンフィッシングショー」として始まったのだが、二〇二〇年に「釣りフェスティバル」と名を変え、今に至っているそうだ。

 しかし、その前身は、一九六〇年代に始まった「釣具見本市」で、この見本市は、その名の通り、釣り用具メーカーの新商品の展示会だったのだ。

 それゆえに、名称が「釣りフェスティバル」となった今なお、釣り道具の新商品の展示会という側面が強い催しなのである。


 今回の二〇二四年のフェスでは、出展メーカーのうち〈一二九〉社は、釣種別、例えば、船、トラウト、わかさぎ、フライ、ソルト、バス、ヘラ鮒ごとに展示エリアが分かれており、参加者の趣味・趣向に応じて巡る事ができるような配慮が為されている。


 七海が、タブレットにダウンロードしたPDFファイルの「出展社一覧」に、タッチペンでチェックを入れながら、会場マップとにらめっこしていると、娘の様子を目にした七海の父親がこんな感想を漏らした。

「なんか、『コミケ』みたいだな……」


 父曰く、夏と冬の年二回、東京ビックサイトで行われている日本最大規模の同人誌即売会、通称「コミケ」でも、全てのブースを巡り尽くす事は物理的に困難なので、どのブースに行くかを事前にチェックし、さらに優先順位を決めた上で、どのようにすれば、一つでも多くの目当ての〈サークル〉に行けるのか、効率的な巡回ルートを考える事に頭を悩ますらしい。

「さらに、だな。目的の買い物が終わった後に、その目当てのサークルがあるブロック、いわゆる〈島〉を巡っていると、事前にはノーチェックだった掘り出しものに出会えたりするのもまた、イトヲカシなんだよ」

 コミケの場合、固められているサークルはランダムではなく、事前に申請された作品やテーマごとにまとめられていて、そのように分類・整理されたサークルごとのブロックの事を〈島〉と呼ぶ場合もあるそうなのだ。


「なるほど〈島〉か……。言い得て妙ね。しかも、わたしが行くのは釣りのイヴェントだから、その〈島〉って呼び方、まさに、イトヲカシね」


 実は、釣種区分が為されているのは、メーカー展示エリアの三分の一ほどに過ぎないのだが、それでも、そのおかげで、七海の巡行がかなり効率化されたのは確かであった。


 そして、九時のイヴェント開始から十七時の終了までの八時間、七海は、可能な限り何周も島を渡ってゆき、新商品を手で直に触れ、もらえるだけのパンフレットを受け取って、持参したプラスチックケースに次々に入れていったのであった。

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