第弐拾壱話 深川の富岡八幡宮の御由緒

 東京都江東区の深川に「富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)」という名の神社が在る。


 江戸時代の初期――

 菅原道真の末裔と言われている「長盛法印(ちょうせいほういん)」は、日頃から、道真公が彫ったとされる、先祖伝来の八幡神像を信敬していたのだが、寛永元(一六二四)年のとある日、「武蔵国に永代嶋といふところあり、わが宮居せん所には白羽の矢立ちたらん」という神託を受けて、京から武蔵国に下向した。かくして、霊夢にあった白羽の矢を永代嶋で発見した長盛法印が八幡宮を創祀たのが、この宮の始まりで、やがて、寛永四(一六二七)年に、そこに、神社を創建したのであった。

 創建時には「永代嶋八幡宮」と呼ばれていたのだが、聖徳太子のお告げによって、貞享二(一六八五)年に「富岡八幡宮」となった。ちなみに、当時の読みは「とみ〈が〉おか」であったそうだ。

 かくて、深川の富岡八幡宮は、「深川八幡」あるいは「深川の八幡様」と呼ばれ、江戸最大の八幡宮となった。


 この神社の主祭神は、文字通り「八幡神(ヤハタノカミ)(ハチマンシン)」たる第十五代天皇の「品陀和気命(ホムダワケノミコト)〈『日本書紀』では誉田別命(ホンダワケノミコト)〉」なのだが、奈良時代に為された漢風諡号(おくりな)である「応神天皇」の方が通りがよいかもしれない。ちなみに、応神天皇は、日本武尊の子で仁徳天皇の父に当たる。つまり、天皇家の男子、親王(しんのう)を祭神としているがゆえに、「宮(みや)(ぐう)」なのである。


 八幡宮のうち、清和源氏が、京都の石清水八幡宮を氏神としていた事から、八幡神は、武運の神として多くの武士から崇められ、また、品陀和気命は弓矢の達人であったため、特に「弓矢八幡」としても信仰されてきた。


 例えば、「南無八幡大菩薩(……)願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。(……)」という、『平家物語』における那須与一の扇の的の話は、武家における「弓矢八幡」信仰の象徴的な逸話であろう。ちなみに、「八幡大菩薩」とあるように、神道と仏教の神と仏が混交しているのは、これが、〈神仏習合〉の思想に基づく、仏教守護の神としての神の称号、いわゆる〈神号(しんごう)〉だからだ。


 かくの如く、武勇の神でもある八幡神の名に〈幡(はた)〉という字が入っているのは、八幡神が〈幡〉を依り代にしているからで、この場合の幡とは、具体的に言うと、〈大漁旗〉の事を指すそうだ。つまるところ、武神たる八幡神は、元々は、大漁の神徳をもたらす海神でもあったのだ。


 そもそもの話、八幡神像を祀られた永代嶋は、元々は、漁師が住む小島で、その後、島の周辺の砂州を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き社有地を得た、という歴史がある。


 さらに言うと、海の側の丘に位置し、〈波除八幡(なみよけはちまん)〉としても知られ、勝運の守り神である八幡大神と、海上安全・豊漁などの海の守り神でもある恵比寿神が合祀された、横浜の「富岡八幡宮」こそが、八幡神を、深川の「富岡八幡宮」に〈分霊(ぶんれい)(わけみたま)〉したのだ。


 神道では、神霊は無限に分けることができる、とされているのだが、分霊は、元の神霊と同じ働きをし、分霊された系列の神社は、元の社名に因む事が多いらしい。つまるところ、一万から二万社あるとされる八幡神の中でも特に、横浜と深川の富岡八幡宮は、強い海の権能を持っており、海と関連した神徳をもたらし得る、と推察できるそうだ。


 七海は、子供の頃から門前仲町に住んでいるのだが、富岡八幡宮は御近所の神社という程度の認識しかなく、こうした八幡宮に関する雑学の殆どは、門仲の受験塾で国語の授業を受けていた際に、大学生講師の神津海斗(こうづ・かいと)から語られたものばかりで、たしかに、試験には出ない知識かもしれないけれど、先生が語った事はどれもこれもが非常に面白く、七海の記憶に刻み込まれているのだ。

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