第拾話 イナサの白兎

 晩秋の出雲では、しばしば強い風が吹く。

 この時期に吹く西風は、「神渡し(かみわたし)」あるいは「神送り風」と呼ばれており、〈神在月〉に吹く強風に乗って、神々が出雲に送られてきたり、出雲から送り出される、と考えられてきた。


「そもそもの話、八百萬の神々が出雲にやって来る時に吹くが故の〈神渡し〉だよね。だから、今日吹く風は、ただの強風なんじゃないかな?」

 こう独り言ちたまさにその時、強い西風が海斗の身体を打った。

「それにしても、すっごい風だな。あやうく、飛ばされそうになったよ。ちょっと待てよ。今さっき、あんな風に考えたばっかだけど、八百万もの神々がいるって事は、中には、〈神迎え〉に遅刻する、そんな神様だっているかもしれないな。うちの塾にも遅刻魔って必ずいるし。そんな遅刻神を乗せる風なら、神在月十日以外でも〈神渡し〉って呼べるかもな」

 こう考えた瞬間、海斗の頭の中に、ある〈声〉が響いてきた。


(あれっ! 浜には〈神っ子一柱〉居らぬぞ。もしや〈神迎え〉は終わってしまった? ワレ、もしかして、遅れた? 今年の神在月十日って、今の暦の十一月〈二十三日〉じゃなかったっけ?)

 ワイヤレスイヤフォンで、タブレットの音声を聴いていた海斗は、初めのうちこそ、その〈声〉は自動再生された動画の音声かもしれない、と思っていたのだが、しかし、その〈声〉は耳を通して聞こえてくる物ではなかった。


(ワレは悪くないよ。悪いのは、旧暦と新暦が対応していない事であろう? そもそもの話、毎年変わるのが悪いんじゃ)

「一体、この頭の中で響いている声は何なんだよっ!」


(ちょっと待てよ。ワレ、前にも遅刻して、ダイコク様にめっさ叱られた事があったんで、朔日になってすぐに、鳥取から島根に来て、この〈オキノシマ〉の社で他の神等が来るのを待っていたんじゃから、その早めにきたワレが、遅れるはずはない。ワレが遅刻したというのがそもそも勘違いで、神迎えは未だ始まっていないにちがいない、間違いない。ん? なんじゃ、アレはっ!)

 こんな独言を続けていた神は、砂上に立つ〈弁天島〉、かつては〈沖ノ島〉と呼ばれていたその岩山の上から浜辺を見下ろすと、浜で小さな板が光を放ち、その輝きを発している板を握っている人がいるのを見止めた。


(浜におるヒトのコよ、ワレの質問に答えよ)

「えっ! いったい何処から、そして、誰が?」

 海斗は自分の周囲を見回してみたが、自分以外の人の気配はまるで感じられなかった。

「ま、まさか……、幽霊?」

 砂上に置いた折り畳み椅子から腰がずり落ちて、海斗は砂の上で尻餅をついてしまった。


(汝、ワレの問いに答えよ。ワレは〈ハクトシン〉であぁぁぁる)

「は、ハクトシン? そんな神様いたっけ?」

 卒業論文で、日本神話を題材にしている海斗であったが、その名に心当たりはない。

「はぁぁぁ〜っ、ヒトのコは、ホント、無知蒙昧だな。そうだな……、〈顕世〉だと、〈因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)〉という名の方が通りがよかろう」

「イ、イナバのシ、シロウサギって、あ、あの有名なぁぁぁ~~~!」

 思わず、海斗は叫びを上げてしまった。


 『因幡の白兎』といえば、『一寸法師』や『浦島太郎』のように、日本人のほとんど皆が知っている有名な昔話で、海斗は、その粗筋を思い起こさんとした。


 昔、因幡の島に、白い兎が住んでいた。

 ある時、その兎は島から陸に渡りたいと望んだ。

 しかし、海のせいで、陸に渡れなかったので、困った兎は、海を泳いでいた鮫を言い包め、海面に背が出るように何匹もの鮫を並ばせ、その背を橋にして向こう岸に渡らんとした。

 そして、もう少しで岸辺に辿りつく所で、調子に乗った白兎は、騙していた事を鮫に漏らしてしまい、結果、怒った鮫に、皮を剥ぎ取られてしまう。

 後に、嘆き悲しんでいる白兎、もとい、ズル剥け兎は、とある神様に出会って、その神に傷を治してもらう。


 たしか……、『因幡の白兎』はこんな筋のお話だった、と記憶している。

 そういえば、その白兎を助けたのは、後に、大国主神と呼ばれる事になるはず。


(そっ。そのかの有名な白兎が、このワレってワケ、さ)

 ハクトシンの〈声〉は、ドヤっとした調子を帯びているように海斗には感じられた。だから、海斗は思った。

 神代の御代から数千年が経っていても、〈因幡の白兎〉は、相も変わらずの〈お調子兎〉であるようだ。


「存じ上げなかったのですが、因幡の白兎って神様になられたのですね?」

(そ、ワレ、〈神化〉しちゃったワケ。いわゆるひとつの成り上がりってヤツ。ヤザワ的な意味で)

 やはり、この兎、お調子者、もとい、お調子兎だ。

 

「なるほど、因幡の白兎神は、〈白兎(しろうさぎ)〉を音読みして〈ハクトシン〉なのですね」

(それな。汝、かっしこいねぇぇぇ〜~~。でも、ホントは、〈イナバ〉じゃなくって〈イナサ〉で、そもそも、ワレがワニにやられたのって、今の鳥取じゃないんじゃよ」

「えっ! 〈バ〉じゃなくって〈サ〉? しかも、〈因幡〉じゃないんですかっ!」


(そもそも、ワレの地元、このイナサじゃもん。たしかに、ワレの社が在るのは今の鳥取、〈因幡の国〉なんじゃけどな。

 で、その『いなば』って音に、今じゃと、因みにの〈因〉に、八幡の〈幡〉って漢字が充てられている分け。でも、〈イナバ〉って、その〈因幡〉って漢字以外にも、〈稲〉に〈羽〉とか、〈稲〉に〈葉っぱ〉の〈葉〉を充てる事もあるんよ)

「たしかに、〈因幡〉でも、〈稲羽〉でも、〈稲葉〉でも、音は同じですね」

(それな。そもそも、漢字が大陸から渡来してから、音に合わせて充てただけで、要するに、初めに〈音〉ありき、つまり、漢字なんて後付けなのじゃよ)

「ハクトシン様、音と対応する漢字に、幾つもの可能性があるって事は分かりました。それでは、〈因幡〉ではなく、ここ出雲の〈イナサ〉がご出身とは、いったいどういった事なのですか?」


(汝、〈屏風岩〉って知っとる?)

「はい、今日の昼に行きました」

(あそこって、今では、結構、内陸にあるじゃろ?)

「たしかに」

(屏風岩の辺りに、タケミカヅチ様が剣を突き立てたんだけど、神代の御代には、あの辺は海だったんよ)

「なるほど。イメージでは、屏風の岩は海辺にある、と思っていたのに、けっこう浜から離れていたので、訝しんだのですが、昔は、あの辺まで海だったのですね」

(それで、その屏風岩の東側は、今では〈遺跡〉になっておって、そこは〈イナサイセキ〉って呼ばれているんじゃ。今だと、この〈稲佐の浜〉と同じように、〈稲〉に〈佐〉って漢字が充てられる場合が多いんじゃよ……」

「はあ……」

(そうじゃな、汝、地図、持っておる?)

「はい」

(それなら、屏風岩の辺りを地図で見てみ?)


 海斗は、タブレットで地図アプリを起動させた。

「あっ!」

(どうやら、汝も気付いちゃった?

 イナサ遺跡は、〈稲佐〉という漢字の他に、因幡(イナバ)の〈因〉を当てて〈因佐〉になっておるじゃろ)

「たしかに」

(実はな、ワレがワニに皮を剥かれたのって、その因佐遺跡の辺りなんよ。まあ、そんで、そのイナサに因んで、ワレ、元々は〈イナサのシロウサギ〉って呼ばれるようになって、後に、〈因佐〉って漢字が充てられるようになったんじゃ。まあ、聞き間違いが原因だと思うんじゃが、なんか知らんうちに、ワレとワニの諍いが起こって、ダイコク様に助けてもらった逸話の舞台が、出雲のイナサじゃなくって、イナバって事になってて、仕舞いには、因幡の国に社まで作られて、そこで神として祀られて、今じゃ、ワレは〈イナバのシロウサギ〉って呼ばれておる分け)


「ところで……」

(なんじゃ?)

「〈神迎え〉は昨日だったはずですが、ハクトシン様は、何故に、今日、神在月十一日の夜にイナサの浜に居られるのですか?」

(やらかしたぁぁぁ~~~。ワレ、やっぱり、遅刻してたぁぁぁ~~~)

「えっ、遅刻?」


 どうやら、海斗が発想したように、〈神迎え〉に遅刻する神はおり、それが他ならぬハクトシンであったのだ。 

 そういえば、『不思議の国のアリス』の白兎も物語の中で遅刻していたけれど、洋の東西を問わず、遅刻癖というものは、白兎のやむにやまれぬ性なのかもしれない。


 そんな事を考えていると、ハクトシンが海斗に呼び掛けてきた。

(汝、〈神迎え〉の時に、〈神籬(ひもろぎ)〉を依り代とした神々が大社まで運ばれてゆく事は知っておるか?)

「はい。〈神迎神事〉に関しては、ひととおり勉強してきました。ハクトシン様、この儀式ですよね」

 そう言って海斗は、自分が先ほどまで視聴していた動画を再生させると、タブレットの画面を弁天島の社の方に向けた。その画面の中では、白装束の神職が祝詞を奏上していた。

(ほお、なんと、便利な小板じゃ。実は、ワレが宿るべき依り代と運び手がおらず困っておったのじゃ。おぉ、祝詞が聞こえるぞ、これは実に都合がよい)

 タブレット内で〈神迎神事〉が展開している中、イナサノハマに、強く激しい一迅の西風が吹いた。

(今じゃっ!)


 弁天島の社にいたハクトシンは、〈神渡し〉に乗って、浜辺にいる神津海斗の方に一直線に向かい、海斗が肩から下げていたトートバックに宿ったのであった。


(汝が、兎を意匠とした袋を携えて、イナサノハマにおった事に、ワレは、強い縁を感じずにはおられん。この兎袋をワレの依り代とし、その所有者である汝には、ワレの加護を与え、我が眷属にしてやろう。ありがたいじゃろ?)

「そ、そんな、こ、こっちにもこっちの都合というものが……。正直言って、迷惑です」

(なんじゃとっ! でも、もう、遅いねや。宿っちゃったから、〈神等出去祭〉が済んで、ワレが出雲から立ち去るまでは、役目を果たしてもらわなきゃならん」

「神在の十七日まで、あと、一週間もこのままなのか……」

(否(イナ)さ! イナ〈サ〉の白兎ゆえにぃぃぃ~~~。とまれ、万九千神社での神宴が終わるまでだから、二十六日、今の暦の十二月八日まではこのままじゃけど)

「ノオオオォォォ~~~!!!」


 無理矢理に白兎神の眷属にされてしまった神津海斗の声が、イナサノハマに響き渡ったのであった。

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