第玖話 イナサノハマにて

 日本各地から八百萬の神々が集って〈神議い(かむはかり)〉が催されている「仮宮(かりのみや)」での参拝を終えた後、神津海斗は、一週間にも及ぶ出雲滞在の為の土地勘を養おうと、地図を片手に、大社町(たいしゃちょう)の町中を歩き回る事にした。


 仮宮を後にした海斗が先ず最初に向かったのは、そこから五分もかからない所に位置している「屏風岩(びょうぶいわ)」である。ここは、その名の通りに、屏風を立てたような形になっている、約二メートルほどの岩壁である。

 現代において、この屏風岩は民家のすぐ脇にあるため、たとえ観光目的だとしても、民家側への立ち入りは当然禁じられており、さらに、かなり風化していて、崩落の可能性があって危険なため、屏風岩自体への接近も禁じられている。

 そういった次第で、海斗は、神話と関連深い屏風岩に近寄れない事を残念に思いながら、遠くからその岩を写真に収めるに留めたのであった。


 神話の知識が無い者には、この屏風岩は、然して大きくもない、今にも崩れそうな、単なる岩かもしれないが、この屏風岩の岩陰は、実は、日本神話において非常に重要な出来事が行われた場なのだ。


 そして、ひとしきり写真を撮りまくった海斗は、屏風岩を肉眼で眺めながら、日本神話における、〈国譲り〉の説話を思い出していた。


 「大国主神(オオクニヌシノカミ)」は、「少名毘古那神(スクナビコナノカミ)」と協力して、「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の国作りを推し進めた〈国津神(くにつかみ)〉である。ちなみに、国津神とは、葦原中国に現れた神の事で、これに対して、〈天津神(あまつかみ)〉とは、〈高天原(たかあまのはら)〉にいる神々の事である。

 のちに、少名毘古那神が去った後、大国主神が葦原中国を完成させると、高天原の「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」は、使者を立てて、大国主神に葦原中国を譲るように要請してきた。

 もちろん、大国主神がそんな申し出をすんなりと快諾するはずはなく、何度かの交渉の失敗後に、高天原から派遣される事になったのが「建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)」と「天鳥船神(アメノトリフネ)」で、この二柱の神が降り立った地こそが、「伊那佐之小濱(いなさのこはま)」、今の「稲佐の浜(いなさのはま)」であった。


 この雷神タケミカヅチが浜に降り立った時の様子が、実に凄まじいように海斗には思える。

 なんと、剣の神でもあるタケミカヅチは浜に降り立つと、波の上に「十掬の剣(とつかのつるぎ)」の束を突き立て、剣の切っ先の上で胡坐をかいたまま、大国主神との交渉に臨んだそうなのだ。

 これは『古事記』に書かれている説話なのだが、『日本書紀』の方では、「武甕槌」(『古事記』における建御雷之男神)は、出雲の「五十田狭小汀(いさたのおはま)」に降り立って、「十握の剣(とつかのつるぎ)」を〈砂〉に突き立て、「大己貴神(おおあなむち)」(『古事記』の大国主神)に国を譲るように迫った、と書かれている。

 様々な資料には、話し合いによって、平和裏に事が為されたような記述があるが、剣を突き立てた場所が、波の上であるにせよ、浜であるにせよ、タケミカヅチが示した剣を用いたパフォーマンスは、ほとんど脅しで、武力交渉以外の何物でもないように現代人の海斗には思えてしまう。 

 とまれかくまれ、結果的に、大国主神は葦原中国を譲る事を承諾し、それゆえにか、「イナサノハマ」は、大国主神と高天原の使者との話し合いが行われた〈国譲り〉の地とされている分けだ。

 

 この出来事が、「葦原中国平定(あしのなかはらのへいてい)」とも呼ばれている、いわゆる「国譲り」で、これ以後、目に見える世界、すなわち〈顕世(うつしよ)〉を、高天原から降臨した天照大御神の子孫が、一方、目に見えない世界、すなわち〈幽世(かくりよ)〉を大国主大神が統べ、大神は、その霊力によって、人々を幸福へと導く、縁結びに携わる事になり、これが、年一回、神在月に催される〈神議り〉の由来になっているのであろう。

 

 屏風岩近くに立っている掲示物には、この岩陰で、大国主大神と建御雷神による国譲りの話し合いがなされた、と書かれているので、現代では、浜から約三〇〇メートル離れてしまってはいるが、「タケミカヅチが剣を突き立てたのは、ちょうどあの辺りかもしれないな」と独り言ちながら、海斗は、屏風岩の周囲に視線を送ったのであった。


               *


 そして、日の入り前の十六時頃、海斗は、満を持してイナサノハマに向かった。


 国道四三一号を通って稲佐の浜に向かった場合、真っすぐこの道の先に、大きな物体が見えてくる。浜辺において存在感を示している、その岩の塊こそが「弁天島」で、かつては「沖ノ島」と呼ばれていた事もあるそうだ。

 とまれ、「沖ノ島」であるにせよ、「弁天島」であるにせよ、名称に〈島〉が付いているのは、今でこそ砂上に在って地続きになってはいるものの、この岩塊が海上に在った事の名残であろう。

 この弁天島の特徴は、なんといっても、岩の上部に在る鳥居で、その鳥居の後に鎮座している社が「沖御前神社(おきごぜんじんじゃ)」である。この神社は、大社ではなく、大社と浜の間、「奉納山(ほうのうざん)」の麓に鎮座している「八大荒神社(はちだいこうじんじゃ)」の摂社である。

 この岩塊が「弁天島」と呼ばれているのは、〈神仏習合〉の江戸時代には、七福神の「弁財天(ベンザイテン)」が祀られていた事を示しているのだが、明治時代から今に至るまで祀られてきたのは、「海神(ワタツミ)」の娘で、海や水の女神にして、漁業の神としても信仰されている「豊玉姫命(トヨタメビメ)」である。

 日本神話を卒業論文の題材にしている海斗は、弁天島の岩山を登って、神社を参拝したいと思っていたのだが、それも禁じられているので、ここでもまた、「屏風岩」の時と同様に、弁天島を写真に収め、遠くから〈二拝四礼二拝〉をするに留めたのであった。


「ところで、〈くじら島〉はどの辺なのかな?」

 こう呟きながら、海斗は、国道と弁天島の間を何度も往復した。


 弁天島が海上にあった頃、島と浜との間に「くじら島」と呼ばれている小島があって、この小島で、地元民は釣りに興じたそうだ。今でも、祭事の時には、くじら島は掘り起こされるそうなのだが、イナサノハマを初めて訪れた海斗は、その位置を確定できなかった。


「まあ、まだ六日あるしな」

 この日は、小島が埋まっている場所は分からなかったものの、海斗は、出雲に滞在している間に、くじら島について観光センターで訊いてみる事にした。


 それから、海斗は、砂上に置いた折り畳み椅子に座りながら、「弁天島」の先、日本海の水平線に沈みゆく夕陽を眺める事にした。

 やがて、太陽の上辺は水平線と重なって、沈み切った太陽の姿は完全に見えなくなって、〈日の入り〉となった。


 令和五年十一月二十三日、すなわち、神在月十一日における出雲市の日の入りは午後十六時五十九分である。

 だが、日の入り後三十分程度は、未だ灯り無しでも外を出歩く事ができる程度には薄明るい。しかし、その後、空は急速に暗さを増してゆき、十八時半頃には、イナサノハマも完全に宵闇に覆われた。


 やがて、時刻は十九時になった。


 神在月十日、まさに前日のこの同じ時刻に、海斗がいるイナサノハマという同じ場所で、八百萬の神を迎える「神迎神事(かみむかえしんじ)」が催されたのだが、その時には未だ、海斗は東京の塾にいた。


 時というものが不可逆的なものである以上、残念ながら、時間を巻き戻す事はできない。しかし、海斗は、神々が稲佐の浜にやって来た翌日の同時刻の同じ場所で、せめて神迎神事を追体験しよう、と望んだのである。


 とある動画サイトに、数年前の神迎神事の模様をまるまる撮影した約二十分の動画が上がっており、海斗は、タブレットにそのファイルをダウンロードしておいた。そして、十九時になるや否や、海斗は、目線の位置にまでタブレットを掲げ、そのムービーを再生させたのだ。


 物語の舞台探訪を趣味としている海斗は、現場に行った時に、その舞台地を背景にしながら、該当するシーンをタブレットで流すという事をしていて、こういった行為を、〈拡張現実的な旅〉を意味するフランス語の頭文字をとって、「VRA(ヴラ)」と呼んでいる。そして、いわゆる〈聖地巡礼〉をするのと同じように、イナサノハマを背景としつつ神事の動画を視聴する事によって、自分の目の前で、神迎神事があたかも斎行されているかのようにして、前日に参加叶わなかった、出雲の神迎神事を、海斗は追体験し始めた。


 やがて――

 タブレット内において、神職が、イナサノハマに迎えた神々を〈神籬(ひもろぎ)〉と呼ばれる依り代に宿らせる場面に至ったまさにその時、突然立った荒々しい風が、激しく強く、海斗を吹き付けたのであった。

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