第拾弍話 白兎神の遷座
高天原を追放された〈須佐之男命(スサノオノミコト)〉は、酒に酔って眠ってしまった〈八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)〉を、十拳剣(とつかのつるぎ)でズタズタに切り刻んだ。それゆえに、この〈羽々(大蛇)〉の退治に使われた十拳剣は、後に〈天羽々斬(あめのはばきり)〉と呼ばれる事になる。
とまれ、この時、ヤマタノオロチの血で染まった川こそが〈肥河(ひのかわ)〉である。
肥河は、出雲国と伯耆国(ほうきのくに)の国境に聳える〈船通山(せんつうざん)〉を源にしているのだが、この山こそが、スサノオによるヤマタノオロチ退治の舞台なのだ。
出雲平野を通って宍道湖(しんじこ)に肥河は流れ出てゆくのだが、この河は、現代の顕世においては〈斐伊川(ひいかわ)〉と呼ばれており、出雲市の東、斐伊川のすぐ側に位置しているのが〈万九千神社(まんくせんじんじゃ)〉である。
万九千神社において、八百萬神が御祭神になっているのは、大社での神議を終えた神々が、大社の神籬から、万九千神社の神籬に移ってきて、この神社の〈磐境(いわさか)〉にて、直会(なおらい)を行うからで、ちなみに、磐境とは、神々のために設けられた石囲いの施設で、直会とは、神の宴の事である。
つまり――
万九千神社では、神在月の十七日の夜から二十六日までの十日に渡って、神議りの打ち上げが催される次第なのだ。
「ハクト様。神議りって、人の世の日数でいうと、十一日から十七日までの七日じゃないですか」
(そうじゃよ、カイト)
「で、自分が気になったのは、神の宴の方は、十七日から二十六日まで、十日に渡って行われる分けだから、つまり、仕事よりも打ち上げの方が長いって話ですよね? これって、いったいどうゆう事なんですかっ!」
(神宴こそが、八百萬の神々がわざわざ出雲までやってくる意義なのじゃっ!)
「どんだけ宴会好きなんすかっ! 神様ってのは」
(やれやれ、全く分かっとらんな。若人ゆえの浅慮じゃよ、カイトの考えは)
「どうゆう事っすかっ!」
(シラフのままじゃ、神々だって、本心を述べられるべくもない。酒が入って初めて、忌憚なく本当の意見が交わせるってものなのじゃよ。だから、宴こそが、熱い議論がぶつかり合う、神議りの本番と言っても過言ではないんじゃ)
「そういえば、うちのゼミの先生も、〈真の指導〉は飲み会からだって言ってたな。何もかもみな懐かしい……」
海斗は、出雲に来る前に参加したゼミの後の飲み会での指導教授の言を、懐かしむように思い出していた。
佐太神社前のバス停から路線バスで移動した後、「一畑電車(いちばたでんしゃ)北松江線(きたまつえせん)」の発着駅である「松江しんじ湖温泉駅」から、宍道湖沿いに走る列車に揺られる事およそ一時間、その後、「大津町駅(おおつまちえき)」で下車し、その駅から万九千神社までは、徒歩で二十五分の距離である。
列車での移動中、海斗は、北松江線と並行して走っている斐伊川の来歴や、スサノオとヤマタノオロチの神話を、トートバックに宿った白兎神から聴かされたり、また、神の宴について〈鞄〉と会話を交わしていた。
傍から見たら、海斗は、〈痛バック〉に話し掛けている痛い奴以外の何者でもないのだが、遅い時間帯の平日の北松江線には、海斗以外の乗客はほとんどおらず、だからこそ、海斗も、人目を憚ることなく、鞄と軽口を叩き合う事ができたのだ。
憎まれ口を叩き合う事もあるが、なんだかんだで、海斗と白兎神は気が合っていて、だからこそ、おしゃべりをしているうちに、移動の二時間はあっという間に過ぎ去り、白兎神が宿る鞄を肩に掛けた海斗は、移動時間を長く感じる事もなく、目的の万九千神社に到着したのであった。
(我が眷属よ。ここまでの〈奉還(ほうせん)〉、まこと大儀であった)
奉還とは、神が宿っている〈御神体〉を、ある場所から別の場所に移動させる事で、分かり易い奉還の事例は、神輿(みこし)であろう。神迎えに遅れた白兎神の場合、兎意匠の鞄が御神体で、〈鞄〉を神輿の担ぎ手の如く奉遷したのが他ならぬ海斗という事になる。
(それでは、〈遷座(せんざ)〉の儀に移るぞ)
遷座とは、御神体を別の場所に移す事を意味するが、ここにおいて白兎神は、ある御神体から別の御神体へ、すなわち、兎デザインのトートバックから別の依り代に移る、という意味で、〈遷座〉という語を使っている。
肩に掛けていた鞄を台座の上に置き、上着を脱いでから、神津海斗は、鞄の正面に立った。そして、左右の手をしっかり開いた後、柏手を八回打って、高らかな音を響かせると、その余韻が収まってから、再び二拝した。
海斗が上半身を起したまさにその瞬間、鞄の表面に描かれている兎の意匠から、海斗が身に着けていた白地のロングスリーブTシャツの表に描かれている、〈兎人〉のアニメキャラクターに、白兎神は〈遷座〉したのだ。
海斗は、着替えとして、ウサギキャラのシャツを出雲に持ってきていた。それは、彼がそのアニメの熱烈なヲタクであるからに他ならないのだが、まさにそのおかげで、白兎神は、己と高い〈神和〉性を帯びる兎意匠の衣服を御神体とし、海斗自身を、ご神体の一部と化する事ができたのだ。
このような手順を踏んで初めて、海斗は、人の身でありながら、神々の宴が催されている万九千神社の石囲いを越え、神領への足を踏み入れる事が可能となったのだ。
そして、神宴が催されている直会の場に足を踏み入れた海斗の耳と目に飛び込んできたのは、耳を劈くばかりの八百萬の神々の怒声と、目の前を飛び交う盃であった。
「なんで、貴様の餅の方が大きいんだよ」
「それは、お前の神格が低いからだろ。お前のイ**ツと同じだな。この短〇野郎」
「なんだと、もういっぺん言ってみろ、このクサレ***! お前の母神でべそ」
「あほか、お前、ワレと母神同じだろ」
そんな悪態が、宴会場の各所から絶え間なく聞こえてくるのだ。
「ハクト様、この罵詈雑言の応酬は……?」
(例えば、あそこの神々は、大社での神等去出祭の時に供えられた餅の大きさで揉めておるんじゃよ)
「えっ! その程度で?」
(餅で揉めるのは神々あるあるで、所詮、神なんて〈山〉の取り合いが本性じゃから)
「『ヤマ』?」
(ほれ、人間世界で言うところの〈まうんと〉じゃ)
「『まうんと』? あっ! マウントかよっ!」
海斗は掌を額に当て、思わず天井を見上げてしまったのであった。
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