第拾伍話 走れカイト

 少名毘古那神(スクナビコナノカミ)に命じられるや、シャツの白兎に引っ張られ、海斗は白い風のように走り出した。万九千神社での酒宴の、その宴席の真っただ中を駆け抜け、神宴の神々を仰天させ、膳を蹴飛ばし、磐座から飛び出すと、橋を渡らず、斐伊川を跳び越え、「国道九号出雲バイパス」まで出ると、その道の真ん中を普段よりも何倍も速く走った。


 白兎神の神の力は、その神が依り代とした衣服を着た海斗の身体全体にまで及んで、その白兎神からの〈神通力〉を使って、神の力を纏ったカイトは、白兎の如く跳び、脱兎の如く夜を駆けた。


 やがて、「国道四三一号」に入った時、海斗の脳裏に、こんな歌が響いてきた。

(走るぅ~、走るぅ~、ワレたぁぁぁちっ。流れる力そのまぁまぁにぃ~。出雲に辿り着いたぁら~、汝にうち明けられるだぁろぅ)

「ハクト様、何を悠長に替え歌なんてしているんですかっ! しかも、『ワレ達』って歌ってましたけど、実際に、脚を使って走っているのは自分っすからね」

(いや、ワレの兎神としての力を使っとるから、複数形にしても間違いではなかろう)

「たしかに」

(とにかく、可能な限り急ぐんじゃっ! あの派閥間の争いを未然に防げるのは、ダイコク様だけじゃし。それよりなにより、これはスクナ様からのご命令だしのぉ……)

 海斗は、胸の兎が、一瞬、震えたように感じ、そして思った。

 ああ、あの神、あの小さき神の命令で僕は、今、こんなに走っているのだ。あの神の言に逆らってはならない。急げ、カイト。遅れてはならぬ。白兎と海斗の力を、今こそ発揮させるのだ。


 しかし、突然、海斗は苦しくなってきた。

 次第次第に、白兎神の力に、人である海斗の身体が耐え切れなくなってきて、呼吸もままならず、はては、二度、三度、口から血を噴き出した。


 その時、はるか向こうに小さく、出雲大社の木製の大鳥居が見えてきた。その鳥居の前の勢溜(せいだまり)は、夜の帳が下がり始め、静まり返っていた。

 目的地近くまで来て、気力を取り戻した海斗は、「松の並木」に入ると、鉄の鳥居をくぐり、神や勅使しか通る事が許されない「正道」を取って、最後の力を振り絞って、銅の鳥居を抜け、何とか「楼門」前にまで辿り着いた。


「ああ、オオクニヌシ様……」

 そして、楼門の前で倒れ伏した海斗のうめき声を、風が、御本殿内奥の〈御神座〉にまで運んで行ったのであった。


              *


 神在月十七日夕方の〈神等去出祭〉で、八百萬の神々を大社から無事に送り出し、〈神議り〉の主催としての役割を終えた大国主大神は、肩の荷が下りたような気分になって、本殿内の神座で、独り寛いでいた。

 神の宴である〈直会(なおらい)〉の事は、万九千神社の少名毘古那神に任せ、後は、この日、二十六日に催される〈第二神等去出祭〉において、神々が出雲から立ち去った、という報告を受ければ、この年の〈神在祭〉は終わりとなる。

 その最初の神等去出祭から、第二神等去出祭までの、人の世の時間における九日は、大国主大神にとっては、一年の中で唯一、出雲において独りきりになれる貴重な時間なのだが、それももうすぐ終わってしまう。

 第二神等去出祭は、人の世、〈顕世(うつしよ)〉においては、神職が奉告するのだが、神の世、幽世(かくりよ)においては、大国主大神への報告役を務めるのは、万九千神社の祭神である〈スクナビコナノカミ〉なのだ。


 オオクニヌシとスクナビコナは、義兄弟の契りを交わし、共に〈国造り〉に邁進した〈神友〉で、それゆえに、オオクニヌシは、第二神等去の報告をしに大社を訪れるスクナビコナと盃を交わし合う時間もまた、毎年の楽しみにしていた。


「スクナが来る前に、残りわずかな独りの時間を、ゆるりと味わう事にしようかのぉ」

 そう独り言ながら、大国主大神が酒が入った杯に口をつけんとしたまさにその時であった。

 風に乗って、「オオクニヌシ様……」という声が、大国主大神の耳に届いてきたのだ。

「誰だ?」

 大国主は、誰何の呟きを漏らしながら、自分の名を呼ぶ声の元の方に〈神眼〉を向けた。

 見るに、楼門の前に、人が一人倒れている。

「いや、ただのヒトのコではないようだ。その身体から、神の力が漏れ出でておる。どこぞの神が力を通しているのか? 誰そ彼?」

 こう訝しんでいると、聞き覚えのある〈声〉が大国主大神に届いて来た。


(ダイコク様。ハクトでございまぁぁぁすっ。貴方様の一の子分の〈ハクト〉ですよ)

「この調子に乗った軽い言い回し、ハクト以外の何神でもないな。ところで、何ゆえに、ヒトのコと共に……」

(その説明は後で。それより何より、自分、万九千のスクナ様からの伝言を預かってきていて、この我が眷属の人の身体を使って、ここまで跳んで、走ってきたのですよ)

「なにぃぃぃ~~~、スクナからの伝言だとぉぉぉ~~~」


 神宴は、基本、無礼講だ。多少の諍い事ならば、直会の幹事を務める少名毘古那神は、我関せずとばかりに放置している。そのスクナビコナが、白兎神を勅令として遣わした、という事は、もしかしたら、自分が仲裁に入らねばならないほどの大事なのかもしれない。


「あいや、分かった。万九千にまで、疾く行こう。その前に……」

 大国主大神は、神力で、神津海斗の身体を、楼門前から本殿内に引き寄せた。

「ハクトよ。このヒトのコ、ヌシの眷属であろうに。血を吐かせるまで走らせるなんて、酷使させすぎじゃ。どれ。ワシが治療して進ぜよう」

 大神は、〈怪我平癒(へいゆ)〉の神力を、海斗に注いだ。

(あたたかい。あたたかい気がする。そういえば、ダイコク様は、〈ワニ〉の野郎に皮を剥かれて、意地悪神様に騙されて、怪我が悪化して泣いている自分を見つけた時も、優しく介抱してくださいましたよね)

「そんな事もあったな」

(自分、あの事で、もう一生、ダイコク様に付いてゆくって念じていたら、なんか、知らんうちに、神になってたんですよ)

「ハクトは、神になっても、あの頃からあんまり変わらんのぉ。どれ、ワシが神の力を通したから、これで、このヒトのコも、やがて回復するであろう。ハクトよ、しばらくは、そのヒトのコを、神の力が充ちている幽世で休ませてやるがよい。その方が治りも早かろう」

(諾です)


 そして――

 白兎と海斗を残して、大国主大神は出雲大社から出てゆき、疾風の如く、万九千神社の磐座に突入し、こう叫んだのであった。

「八百萬の神々よ、鎮まれぇぇぇ~~~い」

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