ep23 地獄のノック

 俺の世界に光を当ててくれた彼女と今日も歩幅をあわせ、一緒に走る。


 俺は彼女が来るずっと前から走っている。


 4時を過ぎる頃に必ず彼女はやって来る。


 俺を見つけると、彼女は近づいてきて、やがて伴走する。


 他愛もない会話、なんの特徴もない会話、そんな単調な会話の中にも、俺は大きな幸せを感じる。


 季節は冬から春に移り変わろうとしていた。

 この日はいつもにまして、うららかな春の陽気だった。

 春の暖かさに誘われた蝶々がひらひらと公園の中を優雅に飛んでいる。

 走っていて、蝶々を見つけると、彼女は「待て〜」と言って蝶々を追いかけだす。とても無邪気な女の子だ。

 

「ねぇ、みてください。たんぽぽがあんなにもいっぱい咲いてますよ」

 

 彼女が指さした先には、原っぱいっぱいにたんぽぽが咲いていた。

 それを見ると俺の荒んだ心が洗われるようだった。


 


 二人でランニングするのが日課となったある日、彼女が「ちょっと足を伸ばして、河川敷まで行ってみませんか」と提案してきた。


 コースを変えるのもいいなと思った俺は、喜んで賛成した。


 二人で河川敷まで走る。


 やがて川のせせらぎが聞こえて、視界が一気に開けた。


 そこには、満開の梅の花が咲いていた。


 あまりにも、壮観で美しい景色に俺は言葉を失った。


「どうですか? この景色。この間私が見つけたんです。あなたにも見てもらいたくて連れてきました」


 彼女が言う。こんなきれいな梅の花、人生で初めて見た。

 俺を連れてきてくれてありがとう。


「こんなきれいな景色が、身近にあったなんて初めて知ったよ。連れてきてくれてありがとう」


 そこから二人で河川敷をランニングした。


 彼女は美しい景色や植物が好きで、街の中を歩いて探しているらしい。


 そんな彼女はこの日から、俺を色んなところに連れて行ってくれた。



 俺の日常が少し華やかになったある日、監督に呼び出された。


 監督の下に行くと、「お前、少しはスタミナがついてきたみたいだな。今日から筋トレをはじめろ」と言われた。


 俺はやっとランニング以外のことができると、心のなかで歓喜した。


「ただし、俺の指示したメニューをやれ。回数はそれ以上もそれ以下でもダメだ。ピッチャーには投げるうえでつけなければならない筋肉と、つけてはならない筋肉がある。だから、絶対にメニュー通りやれよ」と監督に釘をさされた。


 その日から俺はランニングと並行して筋トレにも励んだ。


 筋トレの効果は一気に現れる訳では無いが、少しずつ着実に筋肉がついてきている気がした。



 ある日の夜、大沢と話していると、大沢が

「あの鬼軍曹まじで鬼畜だよ。今日も1000本ノックでしごかれたわ。

ノーミスで30球取ったら終われるって言うから楽勝だと思ってたら、右に左にボールを振るわ、絶対取れないところにフライを上げるわで、まじやばかったぞ」と言った。


 どうやら監督は、鬼軍曹と呼ばれているらしい。

 俺も明日からは心のなかで鬼軍曹って呼ぼう。



 次の日の朝、俺はまた監督に呼ばれた。


「お前、ランニングばっかりで飽きてきただろう。今日は、俺がノックでお前を鍛えてやるよ」


 監督のノックの恐ろしさを大沢が熱弁していたので、俺は遠慮したかったが、村川さんとのキャッチボールのときみたいに、断ったら何をされるかわからない。


 俺は「お願いします」と言った。


 大沢みたいに30本ノーミスで終わるかと思っていたけど、監督が出した条件は違った。


「いつもはノーミス30本だけど、お前は特別に可愛がってやるよ。俺が満足するまで打ってやる」


 監督の言葉に耳を疑った。

 監督が満足するまでって、このサドおやじが満足するわけないじゃん。


 俺はこれから始まる地獄のノックが恐ろしかった。


 俺はショートのポジションについて、ノックを受け始めた。


 野球初心者で、守備なんかやったことがなく、ノックを受けるという経験がない俺にとって、このノックは想像以上にキツかった。

 ノーミス30本よりも監督が満足するまでの方が早い気がしてきた。


 ボールを取れないことも多かった。

 ボールを取れたとしても、捕球の体勢は不格好で、そのたびに監督から「もっと腰を落とせ!」、「最短距離で取りに行け!」、「グラブの向きが違う!」などと言われた。


 朝早くから始まったノックは昼を過ぎても続いた。


 俺はもうヨロヨロで足が絡みそうだった。


 そんなとき、監督は10球続けて取りにくい場所に打ってきた。


 俺はつい、「このサドおやじの鬼軍曹が」と吐き捨ててしまった。


「おいお前、今サドおやじの鬼軍曹って言ったよな」


 なんて地獄耳なんだ。


「いいえ、言ってません」


 とりあえず否定してみた。


「キャンプの初めに言っただろう。お前らにいいえはないんだよ」と監督に言われたので、俺は反射で「はい、言いました」と答えてしまった。


 俺は自分が今とてもまずいことを言ったと気がついた。


「俺のことをそんな呼び方するなんて、なんてやつだ。もう終わりにしてやろうと思ったけど、300本追加だ!」


 今から300本なんて、気を失ってしまいそうだ。


 そこから、意識が朦朧としながら俺は300本受けきった。



 ノックが終わったあと、少し休憩していると、眠りに落ちてしまったようだ。

 時計を見ると、針は4時を指していた。


 こんなにも疲れた日こそ、彼女と話したいと思い、急いで公園に向かった。

 

 俺が着くと彼女は既に走り始めていた。

 俺は、彼女のペースに合わせて走り出す。


「今日は遅かったんですね」と彼女が言ってきた。


「実は監督がノックをするって言い出して、朝からさっきまで絞り上げられたよ。本当に散々な目にあったよ」と俺は愚痴った。


 彼女はうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれた。


 俺が「まじでひどいよな、あの監督」と言ったら、彼女は「確かに厳しいですけど、監督さんも何かの意図があるかもしれませんよ」と言った。


 意図があるのか? いやいや、あいつにそんなものがあるわけない。ただ人をいじめて楽しんでいるだけだと思った。


 その後も彼女は俺のいろいろな話を聞いてくれた。


 俺は大分癒やされて、寮に帰った。


 こうして、俺の散々な一日が終わった。

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