河豚は食いたし命は惜しし
三鹿ショート
河豚は食いたし命は惜しし
傷だらけの顔面で笑みを浮かべる彼女を見て、厄介な恋人から彼女を救い出したいと考えた。
そうすれば、彼女は暴力を振るう恋人を遠ざけた私に感謝し、今度は私のために尽くしてくれることだろう。
そして、私は、彼女の肉体を存分に味わうことができるようになるのだ。
考えただけで、私の呼吸は荒くなった。
だが、即座に呼吸は元通りと化した。
何故なら、彼女を奪ったということが恋人に知られれば、私の生命が危うくなってしまうからである。
彼女を連れて逃亡生活を続けることも可能だろうが、彼女の恋人は簡単に諦めるような人間ではないために、生涯にわたって我々を捜し続けることだろう。
やがて我々の居場所を突き止めたとき、私の想像を超えるほどの報復行為に及ぶに違いなかった。
そのような未来を考えただけで、震えが止まらなくなってしまう。
しかし、苦しんでいると分かっている彼女を放置することに対しても、抵抗があった。
私は、どうするべきなのだろうか。
何日も悩み続けた結果、浮かんだ案というものは、褒められるような内容ではなかった。
***
恋人が眠ったことを彼女から知らされると、私は彼女の自宅へと向かった。
これから何をされるのかも知らずに、彼女の恋人は鼾をかいている。
私は、他者の目が存在する場所まで移動するようにと、彼女に伝えた。
しばらくしてから、駅前の喫茶店に到着したという連絡を受けると、私は行動を開始することにした。
彼女の自宅に存在しているあらゆる刃物や鈍器を使って、眼前の男性の生命を奪うのである。
報復を恐れるくらいならば、そのような行動に及ぶ人間をこの世から放逐すれば良いだけの話だったのだ。
恋人から暴力を振るわれていたために、その状況から脱することを望んでいたなどという動機が存在する彼女の現場不在証明を実行すれば、捜査は難航することだろう。
私は自身の毛髪などといったものを現場に残さないように、眼前の男性の肉体を傷つけていくことにした。
叫び声をあげられないようにするために、刃物で喉を突き刺すと、彼女の恋人は目覚めたが、予想していた通り、声を発することはできない様子だった。
何度も喉に刃物を突き刺した後、鈍器で頭部を殴り続けた。
血液だけではない何かが周囲に飛び散ったが、そのようなものに目を向けている暇はない。
時間にして、二分ほどだろうか。
想像していたよりも簡単に彼女の恋人がこの世から去ったことには驚いたが、動きを止めている場合ではない。
私は他の人間から目撃されないように、自宅へと戻っていった。
***
私が彼女の恋人の生命を奪ってから一年以上が経過したが、私のところに捜査機関の人間が現われたことはなかった。
それを思えば、私の行動には何の不備も無かったということになるのだろう。
私は何の憂いも無く、すっかり傷の消えた彼女と愛し合った。
危険な行為に及んだ結果に得たものは、相応の価値が存在していた。
***
ある日、彼女は尋常たる行為に飽きたと伝えてきた。
では、どのような行為を望んでいるのかと問うと、彼女は私の手を取り、それを自身の首に当てたのである。
爛々とした目に、紅潮した頬、そして荒い呼吸から考えるに、彼女は暴力的な行為を望んでいるのだと思われる。
もしかすると、彼女の恋人も、彼女にせがまれて暴力を振るっていたのではないか。
そのように想像したが、彼女の恋人の性格を考えると、元々暴力的な人間だったに違いない。
ゆえに、恋人の暴力的な行動によって、彼女は自分でも気が付いていなかった願望に気付いてしまったのだろうか。
私は、彼女を傷つけたいわけではない。
だが、彼女が望むのならば、それを叶えることは恋人として当然のことではないか。
私が拳を握る姿を見て、彼女はいっそう興奮した様子を見せた。
***
気が付けば、私は地面に転がっていた。
近くには、血液が付着した刃物を握りしめている男性が立っている。
男性は苦しそうな呼吸を続け、双眸から大量の涙を流していたが、その口元は緩んでいた。
「これで、彼女は暴力的な恋人から救われるのだ」
そのような言葉を発した男性は、過去の私そのものである。
おそらく、この男性もまた、傷つけられている彼女を見過ごすことができず、私と同じような方法で救うことを決めたのだろう。
私は、男性に同情した。
どれほど後の話となるのかは不明だが、やがてこの男性もまた、現在の私のように地面に転がり、自身を殺めた人間を見つめることになるのだろう。
警告したかったが、私は身体を動かすことができなかった。
河豚は食いたし命は惜しし 三鹿ショート @mijikashort
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