7.2
ファミレスから出ると、私は彼女の手を握りながら歩いていた。
感情が複雑に混ざり合っていたからか、涙は零れなかった。けれど思考は動かなくなり、私は呆然と流れていく道並みを視界に入れる。
「ごめんね、澪」
優のモノとは思えない小さな声が、私の耳に届く。
「言わない様にしようと思っていたの。私の我儘に付き合ってもらっているのに、最後まで一緒に居てもらうなんて。傲慢だと思ってた。けど、怖いの、一人でいなくなるのは、嫌なの……」
ポロポロと涙を地面に落としながら、言葉を繋いでいく優。その姿は見ていて痛々しく、辛いものだった。
優が消えるのは嫌だ。けれど私の中に名案は思い浮かばない。でも、それは嫌だ。二つの思考がせめぎあい、不可能なその出来事に立ち向かう。当然のように、案は思いつかないが。
そうして数十分歩くと、彼女の家に辿り着く。幾度もなく見た、優の家だ。どうやら優の母は夜勤らしく、家にはいないだそうだ。
「二回も同じこと、お母さんにさせられないよ」
何故母に相談しないか尋ねた時、優はそう答えた。憶測だが、一度愛した人物が消えてしまった出来事に直面したであろう母に、同じような経験はさせたくなかったそうだ。私もその意見を呑み、優の母には何も言わなかった。
「どうぞ、上がって」
扉を開き、靴を脱ぐ優。私はそれに続くよう、「お邪魔します」と呟き、彼女の背中を追う。
階段を上る。ここも最後となると、途端に涙が溢れそうになる。が、グッと堪え、私は優の背中を見つめながら足を動かす。
部屋の扉を開けると、優はベッドの上に座る。当たり前のように、私はその隣に座る。
静寂が私たちを襲う。お互いにタイミングを見計らっているわけではない。ただただ無音が、その場に流れている。
それを断ち切ったのは、隣に座る優の方だった。
「ねえ、澪」
「なに?」
「私ね、ここ最近楽しかった。いろんな場所に行ったよね、遊園地、水族館、カラオケ、動物園……一つ一つの記憶が昨日のことみたいに思い出せるよ」
手を前に伸ばしながら、寂しそうにそう語る優。私の瞳には既に水面が張っており、崩壊までは時間の問題だった。
「本当に楽しかった。今まで澪と遊ぶこと、少なかったから。一緒に遊べて、楽しかった、嬉しかった」
そう話していく優に、私は我慢できなかった。伸ばした手を握りながら、視線を彼女と合わせる。
「私も楽しかった。大好きな人と、色んなことが出来て。嬉しかった、楽しかった。あなたの記憶は、あなただけのものじゃないよ。私も持ってるんだよ」
赤色の瞳を彼女に見せる。零れそうな涙に気づいたのか、優は指でそれを拭いとる。
「分かってるよ。澪が一緒にいてくれて、本当に良かった」
消えてしまいそうな、儚いその笑顔。何回も見てきたその微笑みを、私に見せる。
その時、思った。この瞬間を、永遠にすればいいんじゃないかって。
「……そうだよ、優、そうだ」
これだ。これこそが、名案だ。
突然立ち上がった私を不思議に思ったのか、優は手を繋いだまま「どうしたの?」と聞いてくる。
「ねえ、優。独りぼっちは、嫌だよね? 一人で消えるなんて、嫌だよね?」
立ち上がった私は彼女の膝に手を付け、寄りかかるようにしそう言う。優は困惑するも、顔を動かすことは無かった。
「なんで気づかなかったんだろう、この手に。これなら私は、優のことをずっと覚えてられる」
興奮交じりにそう語る。すると優は、冷えた右手を私の顔に添える。
「それは、なに?」
そう聞かれたとき。私は間髪を入れず、言葉を吐いた。
「一緒に死のうよ、優」
その提案は、私が考えられる思考の内、一番優れている物だった。
どうせ優が消えてしまうのなら、私はこの世界にいる必要はない。優がいないこの世界で、息をする必要はない。もしも優の言う通り、私が彼女の記憶を失ったとしても、生きる意味を見つけられないだろう。
だが、どうだろう。一緒に死ねば、優の記憶を脳に保持したまま、この瞬間を永遠にすることが出来る。優と、永遠になれる。それは美しく、現状を打開するにはこれ以上ない名案だった。
「一緒に死ねば大丈夫だよ、怖くないよ。優が消えてしまうのなら、私は生きてる意味なんて――」
そう、言葉を並べようとした時。それは、止められてしまった。彼女の唇により、私の言葉はこれ以上出てこれなくなってしまった。
初めて、唇が重なる。それはロマンティックな瞬間でもなく、夢想的な瞬間でもない。ただただ唇が重なったまま、時間が経過していく。
やがて舌が絡み合う。彼女の唾液が舌を通し、私の口の中へ運ばれる。数分間重なり合った内、ようやく唇が離れる。
「はあっ……はあ……」
「ふっ……んんっ……」
再度、それは重なり合う。優の唇が、私を離さない。みだらな音が、その場に響き渡る。唇が離れても、舌だけで彼女と通じ合う。私の瞳で捉えた優は、妖艶で卑猥な、いつもとは違う優だった。そんな彼女も、愛らしかった。
どれだけの時間が経過したか分からない。唇を離そうとすると、それは糸を引き、互いの間を分かつように地面に落ちていく。とろんと溶けた青色の瞳が、私の目に映し出される。
お互いの呼吸音だけが部屋に響く。その行為に、何の意味があったか分からない。愛を交わしあった訳でもない。ただそのせいで、私の思考は原型をとどめていなかった。彼女と同様の瞳を持ちながら、どうしようかと悩んでいた時。優が、私の手を取った。
「澪」
「は、はい」
先ほどの行為があってか、思わず敬語になる。握られたその手は熱く、視線をどこにやればいいのか分からず、彼女の太もも辺りにそれを送る。
「自殺しようだなんて、言わないで」
その瞬間、視線の先で、液状のモノが接触した。それは、彼女の涙だった。
「私のエゴに巻き込んだのは、本当にごめんと思ってる。一人で消えるのが怖いだなんて、おこがましいのも分かってる。けど私、澪に死んでほしくない、死んでほしくないよ……」
それはたくさんの涙を連れて、彼女の元へと落ちていく。優は右腕で目の辺りを擦ると手を離し、私の両頬を包む。
「ねえ、澪」
「……うん」
「私ね、好きだよ」
「……え?」
「澪のこと、好き」
涙を零しながら、ニコリと微笑みかける優。月光に涙が反射し、美しい色を醸し出す。反面、私はその言葉に頭を悩ませる。
「え、ちょっと待って、え、どういう……」
優は私を、居場所として求めていたはず。なのに、どうして。そんな私の思考を待たず、優は言葉を並べていく。
「私ね、気づいてたんだ。澪を見る目が、他の人とは違うって。日和と違う感情を抱いていた時には、多分気づいていたんだと思う。けど、怖かったんだ。その感情に、恋愛という名前を付けるのは」
優は涙によって潤った瞳を向ける。私の頬を包むそれは、少し震えていた。
「というか、知らなかったんだ、恋愛というのを。澪を見る私の目がどういったモノなのか、私には分からなかった。澪が他の人と話していた時、私の中に生まれた感情は不安だと思ってた。けど、違った。それは、嫉妬だったんだ。私は澪を見る目を正当化するために、自分の感情を偽っていた。それでも、澪に酷いこと言った理由には、ならないんだけど」
ははは、と乾いた笑いをすると、キッと、力強い視線を私に送る。その瞳には、説得力が籠っていた。
「だから、嫌なの。好きな人が、死ぬなんて。そんなの私が許せない、許したくない。だからお願い、澪。自殺しようだなんて、言わないで」
右手を頬から離し、優は私の黒髪を優しく撫でる。この目で捉えた彼女の表情はいつにもなく温厚で、慈悲深い物だった。
「わ、分かった……ごめん」
「うん、よろしい」
優はそう言うと手を離し、私に向けていた目線を再度前の壁に送る。視界に映った横顔は、いつも通り美しかった。
再度静寂が訪れる。それはきまずさからでもなく、寂しさからでもない。やけに満たされた静寂だった。そんな中、もう一度優が私と視線を合わせる。
「ねえ、澪。一つ、お願いをしてもいいかな」
私に断る術はなく、首を縦に振る。
「私が消えちゃった後、違う人と一緒に過ごしてみて。それは友情でも、恋愛でもいい。私以外の誰かと、一緒に居てみて」
その告白は、私にとって残酷なものだった。
「え……?」
「お願い、澪。私は澪に、不幸になってほしくないんだ」
寂しそうに私に笑いかける優。それに対し、私の表情は凍っていた。
「む、無理だよ、優以外の人を愛すなんて、無理だよ」
「無理じゃないよ」
「「無理だよ!!」」
私の大声が、部屋中に響き渡る。慣れないことだったから、声が上ずってしまう。
今の彼女の発した言葉を、私は許すことが出来なかった。ようやく好きだと伝えてくれたのに、他の誰かと一緒にいてなんて、私の覚悟をどう思っているんだと。あなたに対する想いが、どれだけあると思っているんだと。
優は私の大声に臆することなく、諭す様に言葉を放つ。
「私はね、澪には幸せになってほしいんだ。私の我儘に、たくさんつき合わせちゃって。最期の時間を共に過ごさせるなんていう、残酷なことまでさせて。記憶にもいない、この世界にもいない私のことを思い続けるなんて、してほしくないんだよ」
「残酷なことじゃないよ、幸せだよ。優のことを思い続けられるのなら、それが本望だよ。だから――」
「澪」
私の声が、優によって遮られる。言葉によって、口が封じられる。
「これは私の、ただの我儘。けど、お願い」
真剣な眼差しを私に送る。その顔を見たら、反論なんて出来る余地は残されていなかった。
「……ずるいよ」
「うん。私は、ずるいんだ」
いつもの調子で笑う優。そんな彼女を見ると、思わずこちらまでおかしくなってしまう。口元を抑えながら、くすぐったそうに笑う。
「ねえ、澪」
再度、私の名前を呼ぶ。頬に、右手を添えながら。彼女の瞳に、愛情を注ぎこむ。
「うん」
「大好きだよ」
「私も」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「……私も、だよ」
私たちは再度、涙を流しながら、唇を交わした。何分か、何十分か、何時間か。その時間は分からない。ただ私たちは、最期の時間を愛を交わすために使った。優の愛を、受け止めながら。私の愛を、注ぎ込みながら。何回も何回もキスを行い、そのたびに愛を誓った。
嫌だ、離れたくない、ずっと一緒に居たい。そんなことを思っても、意味がないことは分かっている。けど、この一瞬だけは、想わせて、愛させて。この女性を、立花優を、私は心から愛していたと。
あなたを、愛している。優を、愛している。
大好きだよ、優。
「……寝ちゃったかな」
私は澪の頭を撫でながら、そんなことを呟く。泣き疲れてしまったのか、私の膝の辺りに寄りかかって眠っていた。
「可愛いなあ」
前髪を人差し指でずらし、瞑っている目を見る。長いまつ毛を有し、それは非常に美しく見えた。
「好きだなあ」
頭を撫でながら、思考から溢れ出すようにそう呟く。同時に、涙も彼女の頬に零れていく。
多分、私が澪をすきだったのは、あの時から。出会った瞬間の、あの時から。今では分かる、澪が私に、愛を教えてくれたから。この感情に、名前を付けることが出来る。
「もう少し早く、っ言えば、よかったなあ……」
今更遅い後悔を流し出す。撫でている手は既にずぶぬれで、私の顔は見なくても分かるくらいにぐちゃぐちゃだった。
本当は言いたくなかった、あんなこと。他の人と幸せになって、なんて。
私のことをずっと想っていてほしい。私のことを、ずっと好きでいてほしい。ずっとずっと、引きずっていてほしい。
けどそれは、彼女を縛り付けてしまう。最愛の彼女を、不幸にしてしまう。それだけは、許せなかった。だからあんな言葉を、最期に残してしまった。
澪の赤く染まった目の辺りを触る。大好きな彼女の姿を、この目に焼き付ける。もう消えてしまう私が、こんなことを思う意味なんてない。必要もない。ただただ後悔が、重なっていくだけ。
だけど、お願い。この時は、この瞬間だけは、この人を想わせてほしい、愛させてほしい。伝えきれない愛の感情を、抱かせてほしい。
「ねえ、澪」
思わず、呟く。大好きな彼女の名前を、不知火澪の名前を。
「私はあなたを、愛している。消えてしまっても、一生。ずっとあなたを、愛し続ける」
涙が止まらない。けれど、この時、この瞬間だけは。
笑顔で、言わなければ。
「大好きだよ、澪」
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