7.1 正しくなくても

 あれから二か月後。夏休みに入ると、私と優は海に来ていた。


「じゃじゃーん、どう?」


 優は体に巻いていたタオルを取ると、美しいその体を露出する。黒で統一しているビキニを身に纏っており、大人びたその風貌が強く強調されていた。自分とは比較にならない胸を見ると、思わず鼻血が出そうになり、両手で鼻を抑える。


「あれ、どした?」


 首を傾げながら青色の瞳を覗かせる彼女に対し、私はコクリと頷く。


「綺麗、だよ」


「うん、ありがと」


 ニシシと笑って見せる優。そんな姿を見ると、頬も緩む。


「澪も似合ってるじゃん、その水着」


 私を指さしながら微笑む優。咄嗟の出来事に、顔が真っ赤に染まる。

 私は藍色のフリルデザインを着用している。ボディラインもあまり強調されず、これなら海に行けると思ったからだ。


「あ、ありがとう」


「でもせっかくなら、お揃いで来たかったなあ」


「優と同じデザインはちょっと……」


「冗談冗談。さ、行こ」


 彼女は私の手を取ると、元気よく海に向かって走り出す。夏の暑い日差しが私たちを襲い、季節を強く感じる。海の家で借りたボールで遊んだり泳いだりしているうちに、自然と時間は過ぎていった。


「そろそろお昼ごろかな?」


 優は眉毛の辺りに手をかざしながら、盛況となっている屋台の方に視線をやる。どうやら既に時計の針は十二時を過ぎており、皆昼食にありつけていたようだ。


「なんか食べたいのある?」


 砂浜で海水を蹴りながらそう尋ねてくる優。特に希望もない私は、「任せるよ」と答える。


「うーん……じゃ、焼きそばかな? 澪の、好きな食べ物だし」


 指を突き立てながら、名案を出したといわんばかりの表情を浮かべる優。その言葉に、私は同意する。

 そうして昼食に焼きそばを食べ、午後も海を満喫したため、私たちは電車で帰宅した。


 

 ガタンゴトン、電車で揺れている中、優の頭が私の肩に落ちてくる。隣の彼女は、どうやら寝ているようだった。起こすのも悪いため、そのままにしておく。

 すーすーと、静かに寝息を立てる優。そんな彼女を視界に入れると、計らずとも頬が緩んでしまう。


 二か月前、優と付き合った時。私は彼女に、こう言った。私だけは、あなたを覚えると。人類の記憶から全ていなくなったとしても、私は立花優という名前を心に刻むと。そう言った。


 そのために私が思いついたのは、暇があるときはとにかく優と一緒にいることだった。彼女の現状を利用した、私の思惑のように聞こえるかもしれない。だが、優を脳に刻むには、これが最適だと思った。


 もちろん私個人でも、優のそれを調べた。消えてしまう病気と調べても特に関連は見つからず、八方塞がりとなってしまったが。やはり彼女の言うとおり、『引き寄せの法則』によって、消えたいという願望がかなってしまうんだろうと予測できる。小説で起きているような出来事だが、目の前でそれが起こっているのだから、信じざるを得ない。


 そして優のそれは、日に日に悪化しているようだった。確実に少しずつ、心が軽くなっているらしい。病院に相談しても精神科をおすすめされるだけだし、レントゲンを撮っても不備は見つからない。身の回りの人間にも頼れない状態だった。


 何故、それが発症したのか。それは恐らく、遺伝によるモノだろうと私たちは推測した。これも憶測だが、優には父親がいたと思われる。それは残された一つの写真から導き出した、かなり根拠の薄い推測だ。だがそれを確信に至らせる出来事が起こったらしい。


 優の母親にそれを相談した時、母は理由もなく、涙していたらしい。よくわからず、ただひたすら涙が出続ける。そんな不思議な体験を、目の前で見たらしい。

 それでも、優のそれを治す手段は見つからない。だからこそ私は、私だけは彼女を覚えられるように、こうして日々を過ごしている。可愛らしい寝顔を見せる彼女を見つめながら、私は密かに心を燃やしていた。


 そうして私の家の最寄りに着くと、私は優を起こし電車を後にする。まだ眠いようで、目の辺りを擦っていた。


「んー、今日も楽しかったね、澪」


 けのびしながら笑顔をこちらに向ける。隣を歩けるようになった私は、バッグを背負い直す。


「そうだね。楽しかった」


 そう答える私がおかしく映ったのか、優は隣でケラケラと笑う。どこか面白い要素でもあったのだろうかと思った私は、不思議そうな瞳を彼女に向ける。


「ね、澪。手、つなごっか」


「……うん」


 暑いはずなのに、ひんやりとした体温が私の右手を襲う。何十回もしてきたはずなのに、未だ緊張してしまう。五本の指を織り交ぜ、恋人繋ぎを行う。

 手を繋ぎながら、夏の音を感じる。木々を撫でる風音、蝉の鳴き声、風鈴の音……昔は嫌いだったその音たちは、今では非常に愛らしい。

 そんなことを思っていた時、隣の優が口を開いた。


「ねえ、澪。今日はどっかで、ご飯食べない?」


「うん、いいよ。ファミレスよる?」


「そうしよっか」


 優は残された手の方でスマホを触りながら、マップを覗く。隣でそれを見る私の中は、幸福感で埋め尽くされていた。

 数十分歩いた後、ファミレスに着くと、私たちはテーブル席に腰を下ろす。もちろん対面ではなく、隣でだ。


「どれにする?」


 優はメニュー表を見せると、私はハンバーグにしようかな、なんて言葉を重ねる。


「私は、優と同じやつでいいよ」


「同じやつでいいの?」


「うん、同じやつがいい」


「そっか。じゃあ、パスタにしよう。ドリンクバーも頼むよね?」


 私はそれに頷きで返すと、優は呼び鈴で店員を呼び、注文内容を伝える。それを終えると、私たちはドリンクバーの方へ向かう。


「久しぶりだなー、ファミレス来たの」


 そう言いながら優は、オレンジジュースを入れた後、白ブドウを同じコップの中に入れる。


「意外だね」


 思わず言葉が出る。


「なにが?」


「飲み物、混ぜるの」


「ああ、これね。これすると、美味しくなるんだよ。澪もやってみな」


「う、うん」


 私は彼女の言う通りの手順を踏み、ミックスのドリンクを作る。初めてやることだったので、何故か緊張した。


「お、美味しい」


「でしょ?」


 コップに口を付け、驚いた表情を浮かべると、優は瞼を閉じながら楽しそうに笑う。


 そうして会話を交わしていると、注文したカルボナーラが到着する。口を付け、二人で感想を交わす。幸せな空間が、その場に広がる。だがその反面、私の中に広がっていく感情はもう一つあった。それは、不安だ。


 彼女といて幸福な気分に浸ると、残された時間のことを考えずにはいられなくなる。後何回、彼女と過ごせるのか。後何回、一緒に笑えるのか。そんなことを考えずには、いられなくなる。


 最近はあまり、夜も寝られてない。今日、優が消えてしまったら。その不安が頭からなくなることは、絶対にないからだ。慣れないコンシーラーを使って、優には隠している。


 幸福と不安。その二つの感情が混ざり、不思議な感覚がこの身に訪れる。でも今は、隣に居る彼女に集中しなければいけない。一緒に居られる、大切な時間なのだから。


「澪、大丈夫?」


 どうやら一人で考えすぎていたようで、隣に座る彼女は不思議に思っていたようだった。


「あ、ごめん。大丈夫だよ」


 そう答えると、優は安心したような表情を見せる。そうしてパスタを口に入れた時、彼女の表情が固まる。


「……ねえ、澪」


「なに?」


 隣に座る優は視線を合わせながら、私のことを見つめる。その目は、真剣だった。


「言わない方がいいと思ったの。澪を辛くさせるし、一人なら澪も気づかずに生きることが出来るかなって」


 言葉を並べていく優。その言葉に、異様な不穏を感じる。


「でも、怖い、怖いんだ。一人は、嫌。澪の辛さより、自分の恐怖心が勝ってしまった。……嫌なら嫌で、別にいい。それでも、聞いてくれる?」


 節々に違和感を感じる。その不安が当たることは間違いないかのように、思考は考えを止めさせない。

 私は頭を縦に振るしか選択肢は残されておらず、「うん」と呟きながら、彼女の声を待つ。


「……前、言ったじゃん。心が軽くなるのは、止まないって。だから私、多分それがなくなっちゃう日も、分かるの」


 瞬間。


 冷や汗が止まらなくなる。思考が逆行する。感情の波が、崩壊する。

 聞きたくない。けれど、聞かなければいけない。矛盾を抱えていたその時、無常にも彼女の口は、動いた。


「私、今晩に消えちゃうみたい。みんなの記憶から、そして、澪の記憶から」


 一線の涙を流す優。言葉を聞きその姿を見ても、私の口が動くことは無かった。

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