6.2

 京の部屋から逃げ出してきたその後。私はベッドの上で布に包まれながら、虚空を眺め座っていた。

 自らへの感情が葛藤し、動けなくなってしまう。何も考えたくない、何もしたくない。思考を放棄するため、布にくるまっていた。

 雨の音だけが響き続ける部屋の中、一つの音が重なる。スマホの通知音だった。私はそれを確認するのも億劫だったので、視線だけをそこに動かす。だが、その連絡主の名前を見た時、私はスマホを取らざるを得なかった。京の名前が、刻まれていた。

 指先をスワイプし、アプリを開く。内容を確認するため、視界に入れる。

 そこには明日、優と行ったカフェに来てほしいという旨の連絡が来ていた。そして、謝りたいと。そう付け足されていた。

 それを見た時、私は自分への怒りが増した。謝らなければいけないのは、私なのに。自分の感情を整理できず起こした結果が、これなのに。

 どう返そうか、と考えることもなかった。私は二つ返事でそれに了承する。

 もう動きたくない、そう思っていたけれど、これは別だ。ここで動けないなら、私は一生自身を許せなくなる。自分を許せなくなる。

 とりあえず明日は、京に会いに行こう。そう決心すると、眠気が私を襲い、気づけば瞼は閉まっていた。






 翌日の12時。私は三十分前に約束場所に到着し、京が来るのを待っていた。夏が迫ってくるのを感じる太陽が少し眩しく、思わず右腕でそれを遮るようにする。そんなことをしていると、遠くの方から声が聞こえてきた。


「澪ちゃーん!」


 音の発生地の方に視線をやると、そこには白いワンピースを身に纏いながら、こちらに手を振る京の姿があった。私も手を振り返すと、彼女は早歩きで向かってくる。


「ごめん、待たせた?」


「ううん、大丈夫だよ」


「そっか。それじゃ、中入ろ」


 京は店を指さすと、私を導くように前を歩く。私は着いていくようにし、彼女の背中を追う。

 店員さんに席に導かれ、私と京は腰を下ろす。そして別々のコーヒーを頼むと、重い空気がその場にのしかかる。

 何か言おうと思っても、最適な言葉が思いつかない。考えてきた案を口に出そうとするも、思考は答えてくれない。右往左往の状態になっていた、その時。京の方から、口を開いた。


「ねえ、澪ちゃん」


 届いたカップを両手で包みながら、黄色の瞳をこちらに向ける。


「なに?」


「……昨日は、ごめんね」


 彼女はそう呟くと口先を咎め、反省の意を顔に浮かべる。


「い、いや、京が謝ることじゃないよ。悪いのは、私で」


「違うよ。無理矢理したのは、私。澪ちゃんに責任なんて、これっぽちもないよ」


 京は指先で何かを摘まむようにし、私の発言を否定する。


「昨日、考えたの。どれだけ酷いことを、澪ちゃんにしてきたんだって。いじめられた時だって澪ちゃんは助けてくれようとしたのに、それも拒絶して。今は澪ちゃんが私と同じじゃないのが許せなくて、もう一度会って関係をやり直そうと思って。最低な自分が浮き彫りになって、嫌だった」


 カップを包む力を強めながら、京は瞳に若干の水面を張る。自らへの怒りからか、その肩は震えていた。


「澪ちゃんは優しいから、何してもいいと勘違いしてんだと思う。いや、してた。だから、強引にでも唇を奪えば、想いは変わらずとも、昔みたいな関係に戻れるかもしれないなんて、淡い期待を抱いてしまった」


 京は自らの心の内を吐いていく。涙の粒がカップの中に入り、波紋を生み出す。


「でもその行為は、全て澪ちゃんを傷つけてしまう。私の大好きなあなたを、傷つけてしまう。自分が一番いやだと思っていたことをしていたと気づいたとき、私は決めたの。澪ちゃんとはもう、会わないようにするって」


「……え?」


 突然明かされたその告白に、思わず目を丸くする。私に見せるその笑顔はとても悲しく、乾いて見えた。


「私がこれ以上澪ちゃんといても、あなたを不幸にする。そんなの、自分が許せない。私以外に感情を向けていた澪ちゃんを見て動き出した結果が、自分にとっては一番の悪手だった。あなたに幸せになってもらうためには、私が傍から離れるしかない。そう決めたの」


 ざわざわと周りが騒音を立てる中、私たちの間に流れていた空気は異様な物だった。彼女の浮かべていた表情は、至って真剣だった。


「ごめんね、澪ちゃん。またあなたを、不幸にしてしまって」


 京は寂しそうに笑いかけながら、カップを持ち上げる。それに対して私は、少し口調が強くなる。


「い、いや、そんなことないよ」


「ううん。私が全部悪いんだよ、澪ちゃん」


「だって、私だって拒否できなかったし」


「私が無理矢理したからじゃん。澪ちゃんの謝ることじゃないよ」


 全ての責任は自らにあるような語りをする京。そんな彼女に、私は苛立った。


「……なにそれ」


 ガタ。椅子から立ち上がると、前髪で瞳が隠れる。京は驚いていたようで、不思議そうな目を私に向けていた。


「なんでいつも、自分が悪いって決めつけるの。前だってそう、最初は澪ちゃんも悪いって言ってたくせに、今更全て自分の責任にする。そうして楽になろうとしてる。そんなの、ずるいよ」


「ずるいって……そうだね、ずるいかもしれない。けれど本当に、澪ちゃんに悪いことはなくて――」



「「そういうことじゃないでしょ!!」」



 大きな声を放つ。店中の視線が、私たちに集まる。今の声に気圧されたのか、京の瞳は怯えていた。


「優も京も、問題に目を背けて自分だけ助かろうとしてる。自分のためにやってることなのに、自分の責任にしてそれから逃げようとしてる。酷いよ、そんなの。私だけ、独りぼっちじゃん」


 はあ、はあと息切れしながら、言葉を並べていく。自己の感情を整えながら、吐露していく。

 今の言葉は、私自身にも刺さる。過去に目を背けて優と一緒になろうとしたのに、そこに感情はないと知ってしまったら、逃げ出してしまった。対話を拒んだのに、偉そうにそう語っている。


「……でもね、京」


 私は息を整えると、再度椅子に腰を下ろす。視線を京の元に戻す。


「一番ずるいのは、私なんだ。問題を直視せず、いつも逃げてばっかの私が、一番」


 目からは自然と、涙が零れていた。粒状のそれが、頬を伝って卓上へと落ちていく。


「京にもこうやって大声で当たって。優との関係からも逃げて。一番最低なのは、私なんだよ」


 人差し指で涙を拭っていく。コーヒーを口につける気力は、残っていなかった。

 そうして自分の感情の中でぐちゃぐちゃになっていた時。私の指を、京がそっと握った。


「そんなこと、言わないで」


 彼女の瞳に張っていた水面は、既に決壊していた。


「大好きな澪ちゃんがそんなこと言ってる姿、私見たくない、見たくないよ。私の前では、大好きなあなたでいて。自分のことを悪いだなんていわないで。お願い、お願いだから……」


 気づけば両手は京によって包まれており、そこには彼女の涙が落ちてくる。それを見ると私は何も言えなくなってしまい、口を噤む。


「ねえ、澪ちゃん。ちょっと、聞いてもいいかな?」


 ピンク色の前髪をしっとりと揺らしながらそう問いてくる彼女に、私はコクリと頷く。


「澪ちゃんは優さんと、どうなりたいの? 優さんの、何になりたいの?」


 それは、核心に迫った質問だった。どう答えようか頭を悩ませる暇もなく、私は心の内を素直に語る。


「……彼女に。優の、彼女になりたい。けど今は、分からない。優のことが、分からないから」


 少しずつ言葉を重ねていく私の声を聞きながら、京は優しく首を縦に振る。


「澪ちゃん。優さんともう一度、話してみて。お互いに考えを整理して、それであなたの気持ちを率直に伝えてみて。目の前の事実を拾ってもなお、自分のために動いてみて。私は、あなたにそれをさせられなかったから」


「で、でも、もう私は……」


「もうじゃない。澪ちゃんなら、出来るよ」


 目の辺りを朱色に染めながら、京は可愛らしく笑う。そんな彼女に申し訳なくなり、思わず視線を外してしまう。


「私は今日、澪ちゃんと話せてうれしかった」


 それを耳に入れた時、再び視線を彼女の元に戻す。


「澪ちゃんが大好きって気持ちは、多分変わんない。これからも、一生。けれど澪ちゃんが苦しんだままなのは、何よりも悲しい、辛い。これで澪ちゃんが変われるなら、本望だよ」


 浮かべている笑顔は、本心からのものなのか作っているものなのか分からなかった。ただ、それを聞いたとき、私は彼女に想いを伝えなければいけなかった。


「ねえ、京。いまから酷いことかもしれないけど、言ってもいいかな。残酷で、最低なことを」


「うん。なに?」


 一瞬沈黙が訪れる。彼女はそれを裂くことは無く、私の口が開くのを待つ。


「私と会わないなんて、言わないでほしい。昔のようにはなれないけど、あなたとの関係を途絶えさせたくない」


 そう言ったとき。彼女の表情が、凍った。私の手を握る手が、震え始める。


「……そんなの、ずるいよ。諦めさせてくれない、ってこと?」


「うん。残酷で最低なことだと、私も分かってる。でも私は、京と離れたくない、最後の背中なんて、見たくない。だから私と、一緒にいてほしい」


 それは、愛の告白でもない。友情の再確認でもない。ただただ彼女に私の要望を強要しているだけの、最低な提案。京が首をどちらに振るかは、私がこれを言った時点で決まり切っていた。



「ねえ、澪ちゃん。それを言うってことはさ」


「うん」


「一生好きでいて、いいの?」


「いいよ」


「……そっか」



 小声で彼女はそう呟くと、少しの時間コーヒーの表面を見つめる。その後、私と視線を合わせると、京は儚く、微笑んだ。


「じゃ、また一緒だね」


「うん。一緒だよ、京」


 この選択が正しいかどうかなんてわからない。正解か不正解かなんて、今の私にはどうでもよかった。

 現状を把握して、そのために動く。それが、京に教えてもらったことだから。これで京と離れるなんて、嫌だったから。それが、幾ら彼女にとってつらい選択肢になろうとも。お互いを想った結果が離れ離れなんて、辛いから。

 その後、私たちは軽い談笑をし会計を済ませると、次の約束を取り付け解散した。前の関係とは少し違う、新しい空気の匂いがした。

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