5.5
窓の外で、雨の音が重なる。思考だけが孤独となり、宙に浮かぶ。
あの後私は京に手を引かれ、彼女の家に招かれた。濡れていた服は洗濯機に入れられてしまったので、今私が着用している服は京のモノである。
ブラウン色のセーターに純白なショートパンツ。私ならまず着ないセレクトだった。シャワーにも入れさせてもらったので、風邪の心配もなくなった。
机が中央に設置されている京の部屋で、私はタオルを抱え、体育座りをしながら彼女を待つ。頭を回すのは、怖かった。
「ごめん、待たせちゃったね」
京はコップを二つ置いたトレーを持ちながら扉を開ける。目が合うと、頬を赤くさせた。
「どうしたの?」
その様子を不思議に思った私は座りながら首を傾げる。京は手の甲を口元に付けながら、口を開く。
「いや、澪ちゃんが私の服着てるの、ちょっと……」
片目だけをこちらに覗かせながら、瞳を薄らめる京。そんな彼女を見ていると、思わずくすりと笑ってしまう。
「京は、変わってないね」
「そうかなあ」
少し甘い雰囲気が、その場に訪れる。今の私には、贅沢すぎる気がした。
京は座るとトレーを机に置き、コーヒーの入ったコップをこちらに差し出す。私はそれを両手で受け取り、ゆっくりと口につける。コップの表面に映し出された私の目の辺りは赤くなっていた。
「ねえ、澪ちゃん」
京はピンク色の髪の毛を指でくるくると巻きながら、気まずそうに私の方を見る。その姿には、何か言いたげな空気を纏わせていた。
「なに?」
「なんで、あんな場所にいたの?」
出てきたそれは、当然の疑問だった。
あの時彼女の目に映っていた私は、大雨の中傘もささず歩いている人間。何かあると思うのは当然だろう。
言葉を吐こうとする。だがそれは、私の思考によって阻まれられることになった。
京に、こんなことを話していいのだろうか。話すことで、楽になろうとしてないか。そんな考えが、私の喉を詰まらせる。
無音の時間がその場に流れる。それでも京は何も言わず、真剣な眼差しをこちらに向けながら、私の声を待っていた。
「……少し」
胸に手を当てながら、何とか言葉を紡いでいく。目を合わせづらく、視線を地面と合わせる。
「少し、嫌なことがあって」
「それは、優さんのこと?」
「え?」
核心に迫ったそれが耳に入り、思わず顔を上げる。
「何となくだけど、澪ちゃんに何かあったら、それは優さんなのかなって」
正座の姿勢を保ったまま、力強い眼をこちらに向ける京。時間を刻む音と雨音が混ざり合い、調和を生み出す。
「話したくないなら、話さなくてもいいからね」
京はコップを持ちながら、温厚な笑みを見せる。そんな彼女を前に、私は嘘を吐けなかった。
「……優が私と、付き合ってもいいって言ったの」
私がそう言うと、京は口に含んでいたコーヒーを吹き出した。
「大丈夫!?」
「げほっげほ、いや、大丈夫、少し動揺が」
手のひらをこちらに見せた後、タオルで机の上を拭き、再度聞く姿勢に戻る。
「私は嬉しかった。優に、私の気持ちが受け入れられたんだと思って。ようやく自分の気持ちに、正直になっていいんだって。そう思ってた」
話していくうちに、視線はだんだんと下がっていく。気持ちと並行し、暗い感情が身に宿る。
「だけど、違った。優は私を好きじゃなかった。私を求めてはいなかった。その事実に耐えられなくて、気づけば雨に降られてた」
右腕を左手で掴む。黒色の前髪が、私の視界を狭める。
「今はもう、優のことが分からない。……私のことも。今、京に甘えてしまってる私のことも、許せない。あなたにどれほど辛い思いをさせたのか、自分でも知っているくせに」
自らの心の内を吐き出す。この行為をしている私自身も、許せない。胸の中で、感情が一杯になった時。
背に、手が回る。京のものだった。
「京……?」
すぐ横にある彼女の顔を見ようとするも、それは叶わなかった。
「そんなこと言わないで、澪ちゃん。私の大好きな澪ちゃんが、そんなこと思わないで」
私の背中を摩りながら、京は言葉を重ねていく。
「澪ちゃんと優さんに何があったのか、私は分からない。けど澪ちゃんがそこまで思いつめている姿、私見たくない。見たくないよ」
声が途中途中で途切れる。それでも京は、私に想いを伝えてくれる。
京は息を整えると、背中に回していた手を解き、私の両肩に乗せる。少し赤くなった黄色の瞳と、目を合わせる。
「私もう、澪ちゃんと会えないと思ってたの。けどもう一度会えて。それだけで、嬉しかったよ」
瞼を閉じながら、京は私に笑いかける。その姿に、懐かしさを覚える。彼女と付き合っていた頃の、輝かしい記憶を。
ふと、彼女の頭を撫でる。優しく、緩やかに。更に顔を赤くさせる京を見ると、こちらの頬も緩む。
「京は、優しいね」
笑いかけながら、そう言い放つと。彼女の目に灯る光が、鈍った。
「ねえ、澪ちゃん」
「なに?」
上目遣いをさせながら、口を噤む。顔と顔とが、間近になる。
「私今でも、澪ちゃんのこと好きだよ」
「……え?」
突然の告白。あまりの瞬間的な出来事に、思考が固まる。
「澪ちゃん。私じゃ、ダメなの?」
私の両手を握る。京のぬくもりが、こちらまで伝わる。心臓の高鳴りが、ようやく自分に届く。真剣なその眼差しが、私の目を刺す。
京は私の、初恋の相手。だけど今の私は、彼女に恋をしていない。罪悪感で一杯だった私を救ってくれた、友達以上の何かだと今は認識している。
だが、今の私に彼女を拒む手段は持ち合わせていない。私はそれほど、強くない。いや、強くなくなってしまった。優から放たれた、一言によって。
「好きじゃない。けど、それで澪が隣でいてくれるなら、喜んで」
優は私のことを見ていない。私に求めているのは、そこにいる意味だけ。それは私である意味はない。
そんなことを思ってしまったとき。最低な思考が、頭を過る。
もし、京が優だったら。優も同じように、私を好きでいてくれたら。酷く醜い考えを、持ってしまった。
私は京に見つめられたまま、無言になってしまう。自分の思考が漏れてしまわないか、不安に思ったからだ。握られた手を視界に入れながら、彼女の声を待つ。すると、私の手から彼女の手が離れ、それは私の両頬を包んだ。
「きょ、京……?」
頬を触る彼女の表情は、先ほどとは何か違っていた。小さな可愛らしいその顔をこちらに覗かせながら、口を開いた。
「私は、ずるいから」
京は、そう言葉を落とすと。
私の顔を、自らの方に近づけた。彼女の顔との距離が、急激に狭まる。こちらに薄紅色の唇を、目を瞑りながら差し出してくる。
今から彼女がやろうとしている行為を、私は知っている。そして今、私はそれを拒否しなければいけないことも知っている。だってその行為は、私が優にされたことと同じだから。自らが否定したその感情を、彼女に向けなければいけないのだから。
近づいてくる京の唇を見る。断ろう、遠ざけよう。そう考えても、私の腕は動かない。
このままじゃ、また京を傷つけることになってしまう。また私のことを、嫌いになってしまう。そうだと分かっている、はずなのに。
「…………」
唇が重なる。ドロドロの感情が混ざり合った空気が、間に流れる。純粋無垢な愛が、手元に届く。私はそれを拒めず、受け取ってしまう。
その時、分かった。居場所を求めた、優の感情を。二年ぶりに京と舌を絡ませていた時、私はその背中に優を見ていた。
また京を、傷つけてしまった。
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