第7話

 ブリリアントの帰り道。


行きと同じように広い背中についていく。

 


「……」


 

 行きと同じく、メガネガエルはあまり喋らず、無言の空気が続いたけど、気まずさの種類が違うかった。



『望月あんこは俺の女だ。文句あるか』



「……」



 この背中があれを言ったのか。

 わかってる。万願寺さんから私を守るための言葉だったことも、本心などでは絶対にないということも。



 だけど、それ以上に今朝、ハルくんとあんな過ちを犯してしまったすぐあとなのに、こんなにもドキドキとしてしまっている自分に腹が立つ。



「……写真は、ちゃんと撮れたか?」



「あ、はい! その……はい」



 反射的に返事した後で、そんなに自慢できるようなものが撮れた自信が無くなり声が小さくなってしまう。

「なんだ、自信がないのか?」



「ええ、……写真なんてスマホとかでしか撮ってないんで、こんなに本格的なカメラではちょっと自信……ないです」



「感性は計算できねえんだ」



「……え?」



「黄金比とか白銀比とかな、物を美しく表現するテクニックはいくらでもある。それを守っていれば、誰でもそれなりのものが作れる」

「はあ……」



「けどな、ビジネスデザイナーってのは計算して物を作っている内はそれなりのものしかできねえんだ。誰もがこの壁にぶつかる。

 だが、中には絶対的なセンスを持つ奴がいるんだ。


 そいつはビジネスデザイナーのように当たり障りのないものを作らない。嫌いか好きか、見る者に強制力を敷く。

ある種、関係性を無視した主導権をも握っちまう」



「は、はあ……」



「……もういい」

 なんか難しい話をし始めたメガネガエルに、適当な返事をしていたらバレたらしい。


 急に難しいこと言い出すから、頭から煙が出そうだった。



「……あの、万願寺さんって……いつもあんな感じなんですか?」



 メガネガエルを呆れさせてしまったので、慌てて話題を変えようと万願寺さんの話を振った。


 しかし、言ってしまった後で『俺の女事件』を思い出し激しく後悔した。



「ああ……あいつは、いつもああだな。一緒の大学だったんだが」

 万願寺さんのあの軽さを思い出し、また恥ずかしくなる。


 あの関西弁と、軽いノリとギャップのある紳士的で清潔感のある身だしなみ。


 キャラがつかめない。



「早く結婚して落ち着いてくれたら、私も含めた世の女性は安心するんですけどね」



 笑いながら薄い薄い毒を吐く。



「あいつ結婚してるぞ」



「……え!?」

「あ、あんな人と結婚する人がいるんですか!?」



 驚きのあまりつい大きな声が出てしまった。



「……うるせぇな。誰と結婚しようが知るかよ」



 メガネガエルは急に機嫌を悪くすると歩幅を広くして先に行ってしまった。



「す、すいません!」



 急いで追いかけ、背中に謝る。



「……ちっ」

 そそそ、そんなに怒る?!



 ちょっと声が大きかったからって、……ん、違うかな。

 “あんな人と結婚する人がいるんですか”にひっかかったのかな?



 それ以降は、一切口を開かず会社に帰った。

 さて、……帰ってきてしまった。


 15時を過ぎていれば、帰る時間だからうさちゃんのように飛び跳ねて帰るんだけど……。



 う゛、14時30分……中途半端に時間がある。



 給湯室からオフィスを覗く。



 アッくん……トウマさん……メガネガエル……シュンくん……



 いた。 ……ハルくん。


 帰りたい! 



「あんこ姉ちゃーん、どこー?」



 うわ、こんなときに限ってアッくんの呼ぶ声。



「A3で出力してほしいんだけど、ちょっときてー」



「は、はーい」



 アッくんのナナメ前でパソコンを見つめているハルくんに背を向け、なるべく顔を見ないように努める。

「これ印刷用だからカラーモード間違わないでね。RGBじゃなくてCMYKだからね」



「は、はーい」



 うう……視線を感じる。



 逃げるようにエレベーターへと向かう。



 ボタンを押し、各階のランプをじれったく見つめる。



 (あー! こんなときに3階で止まるなよー!)



 うちのオフィスには大判出力できるコピー機がないので、7階のオフィスにあるコピー機をシェアさせてもらっている。


 そのため、大判印刷があった場合は7階まで……

「なあ、おまんじゅう」



「ひっ!」



 背後からあの声。



「ちょ、振り返らないで」



 ? なんでだ? 


 しかしそれは願ったり。



「あの……ハルくん?」



 背後を見ないように、おそるおそる話しかける。

「あー、やっぱりだ」



「……へ」



「なんで声だけで俺がハルだって分かんの?」



「……はい?」



「俺とシュンを声で判別できる奴なんてこれまでいなかったんだけど、なんかあんの?」



 なにを聞くかと思ったら、そんなことか。



 昨日の失態の話じゃないみたいだ。

 ポーン。



 エレベーターが到着した音。ウィーンと静かに扉が開く。



 そんな話なら……と、少し安心した私は振り返る。



「だってハルくんとシュンくん、全然声似てないじゃないです……か」



 どんっ



 ウィーン


「んー……!」



 私の目の前には、みみたぶ。



 閉まったままの扉と動かない各階ランプ。



 そして、……唇の感触。


「や、やめてくださいっ!」


 

 状況が理解できた瞬間、反射的にハルくんを突き放した。



 無意識に人差し指と親指で自分の唇を触る。



 ……え、これ……今、



 ウィー……

 エレベーターが急に動き出した。



 突き飛ばした拍子にハルくんの腕がボタンに当たったようだ。



 呆然としている私をハルくんが見つめる。

 ハルくんは私を見詰めながらゆっくりと近づいてきた。



 さっきのことを思い出し、反射的に構える。



「……俺とシュンを声で判別できる奴なんてこれまでいなかった。俺とシュンは同じ人間みたいに散々言われてきた」



「…………」



 ポーン


 扉が開いた。


 

 急いでエレベーターから飛び出す。



 走る私の後ろでウィーンと扉の閉まる音。



 アッくんに渡されたUSBメモリが床に落ち、慌てて拾う。



 拾おうとした手の甲に、水滴が落ちたのに気付いた。

「あ……涙……」



 それが自分の涙だと気付いたとき、ドン、ドン、ドン、と胸を叩く音が鳴った。



 く、苦しい……、これ、私の心臓の音……?



 私、なにされたんだっけ……?



 胸を抑えてトイレに駆け込む。



 洗面所の鏡に映る自分に言い聞かせるみたいに、自分の目を見詰めて。


「キス……された……」

 ……よくよく考えてみれば、昨晩はキスなんかよりもっとすごいことをやらかした。


 そう考えれば大したことじゃない。



 そう思おうとすればするほど、涙が流れる。



 なんでだろう。



 なんでこんなに苦しいんだろう。



「……あ……」



 簡単なことだった。

 昨夜のことは、何一つ覚えていない。



 ハルくんと私が、……その、エッチをしたんだとしても、私はそれを覚えていないのだ。



 けれど、さっきのキスは違う。



 シラフで気持ちも頭もしっかりとしているから、ストレートに気持ちがこみ上げたんだと思う。

 ――わかってる。



 私はバカだ。それでヒドい女なんだ。



 昨日はホイホイと家に行ってエッチまでしておいて、その気にさせたハルくんにキスされただけで取り乱している。



 我ながら情けない。



 けど、……けど、そういうんじゃないんだ。

『望月あんこは俺の女だ。文句あるか』





「……!」



 なんでよりによってこんな時に、さっきのメガネガエルの言葉が出てくるの?



 一番、今思い出したくないのに。



 腰に感じた腕の感触とか、頬が当たった赤いネクタイとか、そんなの今……思い出したく……


 また涙が溢れてきた。


 

 もう自分では抑えられない。



 あー……やっぱり駄目だ。

「おかえりー遅かったねーあんこ姉ちゃ……ん?」



 オフィスに戻った私はバッグを取り、タイムカードを押した。



「……お疲れ様です」



「ちょっと、あんこ姉ちゃん、A3コピーはぁ!?」



 後ろでアッくんの声がしたが、それを無視して私はオフィスから出た。

「~……!」



 エレベーターのボタンを押すけど、ちょうど上に動いたところで少し待ちそうなのに、私は苛立った。


 一刻も早くこのビルから出たかったから、階段で降りることにする。



「おや、望月さん。上がりですか?」



 階段を降りようとしたとき、丁度階段を上がってきたトウマさんに出くわした。



「お疲れ様です」



 挨拶をすると、急いでトウマさんを横切った。



「望月さん」



 呼ばれてつい立ち止まる。トウマさんの声はずるい。



「実は、私も今日は上がりなのですが、これから少し付き合ってもらえませんか」



 トウマさんは、どう考えても空気を読んでいないことを言った。



 普段なら、喜んでついていく私だけど……

「すみません、今日はちょっと……」



「望月さん。貴女は私に逆らってはいけないのですよ」



 ……え、今なに言われた?



「……へ?」



 トウマさんは私に近づいてくると、なにか手に渡した。



「これを預けておきますので、裏口の前でお待ちください。後で私はこれを取りに参りますので、帰るかどうかはその時にまたお聞かせください」


 そういってトウマさんはオフィスへと去った。



「……これ……」



 トウマさんから手渡されたのは、白いハンカチだった。



 トウマさんらしい、清潔感のある色だ。



 俯いて隠していたのに、泣いていたのがバレていたのか。



「まいったな……」



 私は呟いて、涙をハンカチで拭いた。

 15分ほど待ったところで、トウマさんはやってきた。



「今日は、特別な用事がありましてね。それで早上がりをしたのです」



「え、それじゃあ……私はやっぱり」



「いえ、望月さん。是非お付き合いください」



「でも、私」



「上司命令ですよ」



 そう言われれば頷くしかなかった。っつか職権乱用? パワハラじゃないの?

 トウマさんについてゆくと、オフィスから少し離れたパーキングへと連れていかれた。



「どうぞ御乗りください」



 トウマさんが指した車は、軽自動車のような小さな車だった。


 トウマさんのイメージから離れた、かわいい車だと思った。



「助手席は指定席ですので、申し訳ありませんが後ろのお席でお願いします」



 そういってトウマさんは左後ろのドアを開けてくれた。



「は、はい……」

 パーキングを出て、通りへ出る。

 


 知ってはいたけど、この渋谷という街は何時でもやけに人が多い。

 


 その人の多さを腫らした目で歩くよりかは、いいのかもしれない。



「なにがあったのです。望月さん」



 う、やっぱりお見通しか。トウマさんはエスパーなのか??



「いえ、なにも……ないです」

 数秒の沈黙。


 狭い車内でその短い間の沈黙がすごく長く感じた。



「まあいいでしょう。無理には聞きません。ただ、早まった決断は思いとどまってください」



「……」



 正直、胸を掴まれる思いだった。



 あんなことがあって、私はFOR SEASONを辞めるかどうか、迷い始めていたから。

「さあ、ここです。降りてください」



 トウマさんは、大きなショッピングモールの駐車場に車を止め、私に促した。



「ここって……ショッピングモール……ですよね」



「そうです。来たことはありませんか?」



「い、いえ、しょっちゅう来ます!」



「お付き合いくださるといいましたよね?」



「は、はい……(言ってはないんだけどなぁ)」

 エレベーターで4階まで行く。



 私はここに来たことがあるから、その階がなんの売り場なのかを知っていた。



 (……え、ここって……)



 エレベーターを降り、少し進んだところで広がったのは、バッグや時計、そして宝石が並ぶブランドショップ群。



「あの、トウマさん……これって……」

「さあ、望月さん。ピアス、ネックレス、ブレスレット、指輪。

 なんでもいいので選んでください」



 えーーーー!!!




 なんなんだこの会社! なんでこんな人ばっかりなんだーー!!













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