七つの鉄槌 1 

明日出木琴堂

第一打 良心無き快楽

 僕が田中太郎という男を知ったのは、戦後十年を経た昭和三十年の山燃える季節だった。

この爽やかな青々とした季節とは不釣り合いな程に、男は氷の様に冷たい印象を周りに振り撒いていた。心読めない近づき難い存在だった。

しかしながら、男はあくまで、盆休みまでの臨時雇い。二ヶ月もすれば消えていなくなる。別段気にする必要はないのだ。なのに、僕には目が離せなかった。


 僕の職場は、進駐軍が去った今でも娼婦や警察やチンピラが暗躍する神戸の新開地にある。復興もそこそこに戦災の傷跡が未だ多く残る新開地は生きるための人々の熱狂が渦巻いている。その新開地の大通りから一本入った路地裏にある派手な桃色の三階建ての映画館。僕はそこで映写技師をしている。

戦後、映画は敗戦国の国民にとって娯楽の王様であった。そして、映画館は若者たちが夢見る花形の職場だった。若い女給や奉公人には手の届かない高価な娯楽。彼らはどうにかして映画の招待券を手にすることにやっきになっていた。

僕の働く映画館は全席で千席を要していたが、週末や繫忙期には、溢れた客が新開地の大通りまで長蛇の列を作る程の活況を呈している。

そんな映画館の仕事に僕のような若輩者がありつくのは簡単なことではない。人いきれが充満し、緊張と興奮に支配された空間。僕の開幕のベルを合図にカタカタと音を立てて動き出す映写機。真空管アンプが再生するチリチリというノイズの入る音声。映写室から劇場を覗く贅沢感。全ての映画を特等席で鑑賞出来る優越感。映画の最後の仕上げは映写技師の腕に掛かっているという緊張感。

この職にありつけた僕は、全てがラッキーだっただけ。


 三年前のあの日、学生だったの僕はこの映画館で映画を見ていた。

ここは邦画隆盛の折に、三本立てで洋画だけを掛ける今では珍しい映画館だった。

戦前は映画と言えば洋物大作が人気を博していた。しかし、戦中は「鬼畜米英」をスローガンとし、戦後は敵国、敗戦国となって先日までアメリカの占領下に置かれていた状況。そんな中、敵国のアメ公が作った映画を金を払ってまで喜んで見るような殊勝な輩は多くはない。

邦画界は、東宝、東映、日活、大映、と言った邦画制作配給会社が毎週のように新作を上げてくる。それも「総天然色」で。

長い間、同じ映画をかけている洋画館よりも、昔の映画の再上映が主な洋画館よりも、画質が悪いモノクロ映画の洋画館よりも、今日ではころころと上映内容が変わる邦画館の方が数段大衆を魅了しているのは事実である。それでもこの映画館の大方の席は埋まっている。映画が娯楽の王様であることに間違いはないようだ。


 僕がこの日、ここで三本目の映画のクライマックスシーンを見ていた最中、スクリーンが真っ白になった。

無音。客の静かなざわめき。スクリーンはゆらゆらと揺らめく眩しい光だけになった。

多分、フィルムのつなぎに失敗したのだ。

一本の映画は五巻から九巻のフィルムを順番に切り替えながら上映する。超大作ともなると二十巻なんて物もある。

通常、映写室には二台の映写機が設置されている。映写技師は、一台目の映写機の一巻目のフィルムの上映が終わると、二巻目のフィルムをセットした二台目の映写機を作動させる。

その間に、一台目の映写機から一巻目のフィルムを回収し、そこに三巻目のフィルムをセットしておく。これを上映中、フィルムの巻数分交互に繰り返す。映写技師は上映中、映写室でずっとフィルムの掛け替えを行なっているのだ。


 フィルムの切り替えに失敗するとスクリーンが一瞬、真っ白になってしまう。稀にある失敗だ。フィルムの終了を知らせるマークの見誤りが主なる原因だ。

フィルムの巻きが終わりに近づくと上映画面右上端に黒い丸もしくは白い丸の点が点滅しているのを見ることがある。あれは映像の乱れでも、フィルムの傷でもない。

手動で映写機を切り替える際に必要な印なのだ。上映上必須なものなのだ。

映画のフィルムは一巻十分程度。だから約十分毎にフィルムを切り替える必要がある。

切り替えるタイミングがずれると、絵がうまくつながらなくなる。ここが映写技師の腕の見せ所である。ここの映写技師の方はかなりの熟練者だったはず。

もし万が一切り替えの印を見誤ったとしても、一分もしないうちに場面が映し出されるはずだ。


 しかしこの日は違っていた。三分経っても五分経っても、スクリーンは眩しい光が揺らめいているだけだった。客も自然と声高に騒ぎ始め出す。

僕は客席を離れ、階上の映写室に向かう。躊躇なく開けた映写室の扉から一斉に引っ張り出されたもわっとした熱気が僕を包み込む。一歩部屋へ足を踏み入れた瞬間、体に汗がにじむ。

そこは細長い六畳程の空間。そこに二台のカーボン式映写機が置かれている。一台の映写機は動くこと無くカーボン棒の燃焼の光だけを一筋の線として壁の穴から外の暗闇の世界に放っている。もう一台の映写機はカーボン棒が燃え尽きたままカタカタ音を立てながら空のリールだけが回っていた。カタカタと鳴る映写機の音は、フィルムに命を吹き込む音。しかし今は音だけで命を吹き込むフィルムはそこには掛かっていない。

 

 暑苦しい無機質な映写室の床に年老いた映写技師がうつ伏せに倒れている。僕は状況を把握した。

僕は冷静に次のフィルムがセットされている映写機のスイッチを入れ上映を再開させた。一気に客席は静まり返る。皆、スクリーンに集中を戻す。

その次に倒れている映写技師の脈を確認する。脈はある。息もしている。

映写室を飛び出し急いで階下の事務所へ行き状況を伝える。

状況を把握した館主や従業員たちが年老いた映写技師を担架に乗せ【横付け】と呼ばれるリヤカーを付けた自転車の荷台に乗せ、両脇にゴミがうず高く積もった凸凹道を急ぎ病院へ。

その間、僕は騒ぎにならぬよう残り数巻のフィルムを回し上映を続けていた。


 ベテラン年配の映写技師は映写室の熱さから持病の糖尿病を再発し気を失っていたらしい。一命はとりとめた。しかし、一週間の入院療養は必要だった。その間、この映画館は休業せざる得なかった。

現状、映画館はどこも盛況。この新開地にも数多あまたの映画館がある。

急に代わりの映写技師を雇える程、映写技師の人材は余っていない。

年老いた映写技師の休みには、配給会社から臨時の映写技師が派遣されて来るが、それも決まった日時にだけである。ひと月で七日程度である。

まして、繁忙期ともなると、映画館専属の映写技師は休み無く働く事もしばしばある。だから代わりを見つけ直ぐには雇うことは簡単な事ではない。

それに、倒れた映写技師が復帰出来たとしても、年齢的にも体力的にも、映写室の過酷な環境下で今まで同等に映写技師の仕事を続けるには無理があった。

そんな経緯があり、あの日の僕の活躍ぶりを知っている館主から僕に手伝って欲しいとの依頼があったのだ。

僕は二つ返事で了承した。本当に、幸運だった。


 僕は元々、映画館で働きたかった。映写機の勉強も独学でやってきた。だからあの時、即座に対応出来た。それが契機となり夢にまで見た世界に入れた。本当にツイていた。

僕はあの日倒れていたベテランの映写技師の方から徹底的に映写技術を教え込まれた。上映時間の合間には、客の案内やモギリの映画館での表の仕事もやった。

夢に描いた職場での日々は、楽しくてしかたなかった。

楽しい思いで働き出して二年、僕は映写技師の免許を得た。僕を指導してくれた大先輩の映写技師は、僕の免許取得を期にこの映画館を辞めた。

それからは僕がこの映画館の全ての上映を担った。


 娯楽の王様である映画の勢いは留まるとこを知らない感じだ。日本映画は一年間で六百本近く制作された。毎日二本づつ新作が生み出されているということになる。

特に、ゴールデンウイーク、盆、正月は映画館は書き入れ時になる。

そのために絵看板がとても重要になる。映画館に掲げる絵看板ひとつで客の動員は一挙に変わる。映画館にとっては死活問題だ。

だから映画館側としては、上手い絵看板絵師を抱えたり、専門の絵看板制作会社に頼んだりと、余念がない。

特に繁忙期には絵師も絵看板制作会社も引っ張りだこの引く手数多あまた。寝る暇もない程だ。

毎週の毎、新作が上映される。それに合わせて看板も掛け替えられる。猫の手も借りたい事態となる。

そして、この度、あの男がこの映画館に呼ばれることになる。


 男は渡りの絵看板絵師を生業としていた。一定の場所には落ち着くことなく、日本中の映画館を渡り歩いていると聞いた。聞くからに胡散臭い。

名前を田中太郎と名乗る。これも聞くほどに嘘臭い。

しかし、絵師としての腕はピカイチだと言う触れ込みだ。そして、各所での悪い噂もピカイチだった。

それでも田中太郎は映画館や絵看板制作業者からの依頼が多数あり、腕前は間違いないようだ。


 かの男の就業前日、田中太郎は僕の前に現れた。

「船場君。明日から来てもらう絵看板絵師の田中君だ。」館主に連れられて田中太郎は熱気の籠もる映写室に挨拶に来た。

「映写技師の船場美津彦です。よろしくお願いします。」

「よろしく。」愛想のひとつもない素っ気無い挨拶。頭ひとつ下げることもなかった。なのに、田中太郎の印象は僕の目に焼き付いた。

多分、年齢的には変わらない。もしくは僕よりも年下。

すらりと伸びた体躯に飴色の麻の開襟シャツを素肌に羽織っている。汗だくの僕とはえらい違いだ。シャツから出る腕は白く、否、青白く、血管が透ける程だ。亜麻色の髪を無造作に伸ばしている。切れ長の目。筋の通った鼻。薄い唇に尖った顎。

不思議な雰囲気を持っていた。

「臭うな…。」田中太郎がここを出て行く時にぽつりと呟いた。

『僕、汗臭さかったのか…。』


 僕が田中太郎と直接関わる事は多分ないだろう。それどころか、同じ会社で働いていても映画館勤務の僕と一丁目離れた工房絵師の田中太郎では現実的に会う事もないはずだ。なのに、彼の存在は嫌でも耳に入る。それ程に存在感のある男だった。

しばらくすると田中太郎の評判が毎日のように嫌でも耳に入るようになる。

絵師としての前評判は伊達ではなかったようだ。絵の上手さ技術はピカイチ。それに絵に対する知識も豊富、その上、端正な顔立ちときている。瞬く間に映画館内外で噂の主となる。

しかし、田中太郎には、ここに来る迄にも様々な噂がついて回っていた。

「あっちこっちで問題を起こす。」だの「女性客が入れ込んで身を滅ぼした。」だの、挙げ句の果てには「女性従業員が駆け落ちして身元不明…。」というような虚実不明な話まである。

無愛想だが絵師としての腕前は言うことなく、それであれだけの容姿。今迄の武勇伝、噂話は半信半疑というところだろうが…。

こんな噂話が幾多あったとしても田中太郎の腕に恋焦がれる映画館は数多あまたあるのだ。それだけ彼の腕前は本物というところだろう。

元より、この映画館で看板絵を描いている絵師たちも彼の技量に舌を巻く。


 このご時世の映画の絵看板は、映画の量産、量産の嵐から、描き上げて、掛けては取り外し、掛けては取り外しの、繰り返し。短時間で描き上げては、また次の作品を描き始めるという、自転車操業状態。

どれだけエネルギーを注いで描いても二度と再利用されることないたった一週間の芸術。あっけなく寿命を終える儚い美術。

それなのに、客の入りを大きく左右する広告アート。描き手の力量の差が明確に動員数として反映される。


 役割は重要である割には短命な絵看板。容易く描けるのかといえばそうではない。

絵看板の下地となる素材はベニヤ板。【暗室】と呼ばれる小屋にベニヤ板を何枚も並べてそこに白い紙を貼っていく。

看板の下地処理が出来上がったら【割付け】という工程に入る。【割付け】とは、元画(ポスター、スチール写真)を基に、先っぽに木炭を付けた長さ一メートル程の竹竿で絵の配置(レイアウト)を決めていく作業である。

ラフスケッチに該当する【割付け】が終われば、デッサン(輪郭取り)の工程に入る。ここでは【幻灯機】なる物が使われる。

【幻灯機】を使って、スターの顔写真や映画の風景写真が【割付け】を終えたベニヤ板に拡大投影される。投影されたものを絵筆や薄墨でなぞる。これで、元絵を拡大した複製デッサンが出来上がる。

はなから、ベニヤ板を【暗室】に並べて作業していたのは、【幻灯機】を使用するためである。しかし、この【幻灯機】、発する温度が生半可なものではない。

【暗室】で【幻灯機】を使用しての作業は冬場でも汗をかく程、夏場では灼熱地獄と化す。

今の季節でも【幻灯機】によるデッサンは【暗室】をオーブンに変える。絵師は五分と作業を続けられない。しかし、田中太郎は涼しい顔で汗ひとつ掻くことなく作業を行う。同じ人間なのだろうかと、疑ってしまう。


 灼熱地獄を乗り切った後は【塗り込み】という色付けの作業になる。使われるのは【泥絵の具】と呼ばれる手作りの絵の具だ。【泥絵の具】は粉末の絵の具をにかわに溶いて作る。にかわは動物由来のゼラチンを主成分とするものであるため、夏場は即、腐り、悪臭を放つ。この時期には難儀な代物である。

だが、田中太郎の使う自前のにかわは全く腐らない。悪臭も放たない。獣膠じゅうこうとも魚膠ぎょこうとも違うようだ。

不思議に思った同僚絵師が田中太郎に「にかわの材料、なに使ってるんや?」と尋ねると「知らん方がええ。」と、返されたらしい。これ以降、田中太郎に同じ質問をする者はいなかった。


 右手に刷毛を持ち、左手に映画の資料を持ち、色を確認しながら塗っていく。背景から人物の順に塗っていく。映画の内容で色調を変えながら塗っていく。

九割がた完成したら、字書きさんによって【文字入れ】が施される。絵師にとっては、せっかく描いた絵が潰されていく忍びない瞬間である。しかし、田中太郎が描いた絵には字書きさんが申し訳なく思いながら【文字入れ】を行ったようだ。

そして最後の工程が【仕上げ】になる。絵の細部を丹念に書き込んでいく。特に人物の眉毛、目の周辺、唇は入念に描き込んでいく。一番のポイントは目元と口元。白を添えて光を強調する。田中太郎の描く西洋女優たちの目元の輝きは生命感に溢れ、口元はまるで今にもしゃべり出しそうな程になまめかしい。


 一作品の絵看板は二~三日で完成させる。出来上がった絵看板は一旦解体し【横付】と呼ばれるリヤカーを付けた自転車に積み、工房から映画館に運び込む。ここで絵看板絵師の仕事は終わり。あとは大工が映画館で組み立て設営してくれる。外した前作の絵看板は工房へ持ち帰り、下地処理を施し次回作用に使い回す。だから映画館の絵看板は残らないのである。


 田中太郎の絵看板は兎にも角にも大衆を惹きつけた。その中でも白黒映画の絵看板には定評があった。田中太郎は白黒映画の絵看板をセピア調に描き上げる。

それもとても慕情溢れる、艷やかな絵に描き上げる。

通常、映画館の絵看板は一週間で掛け替えられる。使命の終わった絵看板は二度と使われる事はない。次回作の看板の下地として再利用するか、程度が悪ければ廃棄されるだけ。しかしながら、田中太郎のセピアの絵看板は客が映画館に譲って欲しいと懇願する程である。

同僚絵師が田中太郎の使うセピアの塗料について尋ねると「自作。」と、応えた。

「材料は?」と、問うと「髪。」と、だけ返した。

本当か冗談か分からない返答に同僚絵師は気味悪がった。この件以降、他の同僚絵師たちも田中太郎から更に距離を置くようになる。

そうなると回りの人間たちは好んで田中太郎の邪推を始める。

「女の髪を無理矢理切って塗料の材料にしている。」だとか「女に貢がせて良い絵の具を買わせている。」だとか。

田中太郎を貶める噂話は尽きなくなる。周囲の人々にはそれが今一番の息抜きになっていく。

しかし、そんな周囲の嫌悪感などお構いなしに田中太郎の絵看板はどんどん評価を上げていく。

面白く無いのはもとよりこの映画館で絵看板を描いていた絵師たち。

田中太郎を貶める噂話で憂さを晴らし。酒を煽る。

そして話はおひれはひれがくっ付き、だんだんとおぞましい話になっていった。


 しかし、好評も悪評もどちらも注目されているから起こる事であり、注目されていなければ噂も立つ事はない。良くも悪くも田中太郎の事を人々は気にしているわけだ。

そんな中の一人に、この映画館の館主のお嬢様である恵美子さんが名を連ねることになる。

恵美子お嬢様は今年度で女学校を卒業する十八歳。女学校が休みの日にはモギリなど、映画館の表の仕事を手伝っている。

不思議な事に、恵美子お嬢様は館主夫妻とは全然似つかない容貌を持っていた。

白人女性の様に白い肌と体躯。小さな頭に大きな瞳。この映画館の看板娘と言っても過言ではない。その恵美子お嬢様が田中太郎に入れ上げた。

時間ある毎に自転車に乗って工房へ田中太郎に会いに行っている。田中太郎の仕事振りをジッと見ている。そのうち、田中太郎への差し入れまで行なうようになった。

そんな健気な姿を田中太郎は意に解さない。それどころか眼中にも入れない。失礼極まりない態度を貫く。

昔からいる絵看板絵師たちも、自分たちをおくびにも掛けない気にもしない恵美子お嬢様の態度に不平を口にし出す。今迄、映画館の裏の仕事には一切の関わり合いを持たなかった恵美子お嬢様の変わりように不満が噴出し始める。

田中太郎ひとりを依怙贔屓する恵美子お嬢様、それだけしても相手にされない恵美子お嬢様を、絵師たちは面白可笑しく茶化し出す。

恵美子お嬢様も回りからそうされると意固地にならざるえない。田中太郎に猛烈にアタックをかける。

それが功を奏したのか、田中太郎も恵美子お嬢様への歩み寄りの姿勢を見せ始めた。態度を軟化させる。

恵美子お嬢様が「おはようございます。」と、言えば「おはよう。」と、返す。

恵美子お嬢様が「お疲れ様でございます。」と、言えば「お疲れ。」と返す。

田中太郎は相変わらずの無表情、無関心、無愛想だが、恵美子お嬢様はそれらの言葉だけで頬を赤らめた。しかし、恵美子お嬢様はここまでこぎつけるのに時間をかけ過ぎた。

この映画館と田中太郎の契約の期間はもう終わりつつあったのだ。

あと少しで田中太郎はここを去る。否が応でも、恵美子お嬢様も諦めざるえない。


 そして田中太郎が去る。

と、共に恵美子お嬢様も姿を消した。


 田中太郎はこことの契約終了の翌日には下宿を引き払い、あっさりと姿を消していた。

その数日後、恵美子お嬢様も姿を消した。

母親に頼まれた夕餉の買い物に出たまま行方不明となった。映画館の閉館後、皆で目ぼしいところを探したが恵美子お嬢様は見つからなかったようだ。

僕はこの件を公休明けの翌日の出社時に知った。

この日も閉館後に館主以下全員で恵美子お嬢様を探した。しかし、発見する事は出来なかった。父親である館主はやむなく警察へ失踪届を提出。


 一週間が過ぎ、二週間が過ぎる。

しかし、恵美子お嬢様からの便りは無い。警察からの捜査の進展も聞こえてこない。

ただただ、映画館で働く皆に鉛のような重く鈍い時間だけがのしかかってくる。

映画を心待ちにしている客がいる。映画館で働く皆は暗い顔をしてはいられない。

疑念や不安や妄想を押し殺して笑顔で仕事をこなす。

心配は拭えない。しかし、だからと言って暗い顔を客には見せられない。

そんな苦々しい思いを抱えた日々を映画館で働く全員が過ごしていた。


 しかし、ひと月近く恵美子お嬢様の音沙汰が無いと、皆の中に疑念が立ち始める。

嫌な妄想を巡らし出す。

「恵美子お嬢様は田中太郎と駆け落ちしたんじゃないか…。」

「田中太郎にそそのかされたんじゃないか…。」

「恵美子お嬢様は田中太郎に誘拐されたのかもしれない…。」

「田中太郎が恵美子お嬢様を外国へ売り飛ばしたんじゃないか…。」

「恵美子お嬢様は…、もう…、生きていないんじゃないか…。」

噂は噂を呼んだ。話はどんどん悪い方へ悪い方へエスカレートしていく。

そんな話が館主夫妻の体を段々と弱らせる。みるみる衰弱していった。


 恵美子お嬢様が消えて三月みつきが過ぎていた。

その夜、僕は何か気がかりを感じ、軽い胸騒ぎを覚え、深夜に映画館に行った。今晩は月も無く新開地はもう深い眠りについていた。街灯の心細い光はどうにか進むべき通りを浮き上がらせてくれていた。

映画館の裏口から昼間なら事務員で溢れかえる事務所に入る。近所の迷惑を考え敢えて照明はつけない。持参した懐中電灯を頼りに事務所から昼間なら客で溢れかえるロビーへ。

もう師走だというのに閉館後の映画館は、まだ客の興奮冷めやらぬ熱気が残っているかのように蒸し暑かった。

元々、外光の侵入を徹底的に遮断する建物である映画館の館内は暗闇に支配されている。

上映中、真空管アンプが再生する大きな音を外部に漏らさないための防音もしっかり施されている。

僕を包み込む蒸した空気。真っ暗の中のあてにならない視界。敷き詰められた絨毯は足音さえもかき消す。五感を狂わせる空間。

懐中電灯の細い光だけを頼りに館内を突き進む。何年も通っている映画館なのに暗闇の中では慣れ久しんだ記憶はあてにならない。

細く頼りない懐中電灯の明かりだけを頼りに三階席へ向かう階段を上る。三階席に入る行き止まりの踊り場。そこにある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉を開ける。この先の階段には絨毯は敷かれていない。急に僕の靴底の音が階段に鳴り響く。壁を反響し僕の鼓膜激しく叩く革底の靴音。

コツコツと足音を響かせながら僕は一階分上がり、目的地である映写室の前に到着した。


『えっ、照明がついている…。』

映写室の扉の隙間から光がこぼれていた。僕は反射的に懐中電灯を消していた。

扉の隙間のぐるりから黄色い光が漏れ出ている。

『誰かいるのか…。』こんな時間に誰もいるはずはない。

『泥棒か…?』扉を開けることに逡巡してしまう。

僕は扉のノブに手をかけ音を立てぬようにゆっくりと回した。

扉を自由を奪っていたツメは外れた。後は扉を引けば中の様子は伺える。

しかし、扉を引き放つ踏ん切りがつかない。想像した恐怖に体と心が扉を開けることに戸惑う。

扉のノブを握る手の平が汗ばむ。額に汗が滲む。背筋が寒くなる。

「うわあ!!」僕は目をつむり大声と共に扉を勢いよく開けた。恐る恐る目を開ける。映写室の明かりに瞳孔がついていけない。映写室の明かりに目が慣れてくる。映写室の室内の映像がはっきりしてくる。


『誰もいない…。』


六畳間程の映写室をしっかりと見直してみる。間違いなく誰もいない。映写室の室内も乱れてはいない。いつものままだ。でも、誰かがいた気配を感じる。

僕は恐くなって逃げ帰った。


 翌日、昨日あった事を館主以下、映画館で働く皆に話して回った。しかし、帰ってくる感想は「ただ単に照明の消し忘れだって…。」と、言うものばかりだった。

戦時中の神戸は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の通称【神戸大空襲】が有り徹底的に空爆の焼夷弾で焼かれ、一面の焼け野原だった。

新開地も言うまでもない。沢山の民間人が犠牲になった。だからお化け、幽霊の類いの話には事困らない。おかげで変な免疫もついた。怖いという感情に麻痺している。だから少々の怖い話など笑い話に転換されてしまう。


こんな他愛もない事よりも、映画館で働く皆の気がかりは恵美子お嬢様の行方である。

しかし、時は残酷なもので、三ヶ月、半年、一年、…と、過ぎるに連れ徐々に皆の心から恵美子お嬢様は消えていった。警察の捜査も打ち切られた。恵美子お嬢様は失踪者としての扱いとなった。

それと同様に、あの不思議な夜の一件も時間の経過と共に、僕の記憶から消え去っていた。


 


 

 目が、覚めた…。目脂めやにが邪魔をして目が開けにくい…。

壁のテレビがついている。『消し忘れたか…。』

テレビがローカルニュースの番組を流していた…。『思い出した。子供らが来ているのだった…。』

芦屋の山手に建てた御屋敷。その一室で私が横になるベッドの回りに集った、愛する子供ら夫婦と孫たち。私を尊敬し信奉する子孫たち。総勢で40名を超えた。

ぼちぼち私の人生も幕引きが近い。好きな事をやって好きなように生きた楽しいだけの人生だった。


 私はあの映画館を買い取った。恵美子お嬢様の件以来、衰弱しきっていた館主夫妻に映画館の経営を引き継いでくれるよう依頼された。

私には断る由はない。二つ返事で映画館と映画館の経営権を買い取った。本当に、幸運だった。

そして、私は映画館の経営者となった。

暫くは映画の隆盛は続いた。しかし、映写技師も続けていた私からは、映写室から見える客の後ろ姿から、映画に対する熱の引きようが手に取るように感じられた。

私は迷うことなく舵を切った。健全な洋画館から不健全な成人映画専門館へ。

時代は映像をテレビに求めた。創世記のテレビは【エロ】【グロ】【ナンセンス】のオンパレードだった。しかし、もう戦後では無くなった大衆の求めたものはそれだった。私の読みは当たった。健全な家庭で見ることの出来ない不健全な映像を提供することは大衆に支持された。

昔からの従業員たちからは否定された。否定した者は全員辞めていった。住民からも風紀を乱すという理由から何度となく抗議を受けた。しかし、悪評判が強くなればなるほど、私の成人映画専門の映画館は儲かった。怖いもの見たさという心理なのだろうか…。

私は儲けた金を元手に時代を鑑み【青線】の経営に手を出した。これも面白いように成功した。地元のやくざにみかじめ料を払い、警察に袖の下を渡し、政治家に献金し、最終的には【青線】を公認の【トルコ風呂】へ昇格させた。私はいつしか、この界隈で【トルコ風呂】と【ピンク映画館】を有する【夜の帝王】と呼ばれるまでにのし上がっていた。

本当にラッキーだった。


 これまでに結婚は三度した。三度とも妻に先立たれる結果になっている。この間に九人の子をもうけた。子供たちのために風俗産業からは足を洗い、蓄財を元手に株式投資家として生計を立てることにした。

これも時代とマッチし、バブル景気で私の資産は何百倍と跳ね上がった。

本当についている。


この後は、何もせずとも財産は増え、何もせずと豊かな生活を今日まで送れた。

本当に私は幸運だ。私の人生は最高だ。


そう思い少し疲れたので目を閉じて寝ようとした時、私の部屋の床から黒い何かが生えてきた。

たけのこの様に床から。音もなく。私のベッドの回りで一緒になってテレビを見ている子供夫婦たちや孫たちは何も気づいていない。あの黒い何かが見えていないようだ。死期が近くなった私にだけが見えている幻なのかもしれない。

しかしそれは夢でも幻でもないようだ。

その黒い何かは床から50センチ位まで伸びるとたけのこの様な形を変え始めた。ある部分は風船の様に膨れ、ある部分はススキの様に生い茂り、そしてグニャグニャと形を変えながら出っ張ったり、へこんだりを繰り返す。

暫くするとそれが何になるのか分かった。『人間の胸から上だ。』

私は声を出そうとするが、私には声を出せる力が残っていない。目を動かし子供夫婦らや孫たちに合図を送るが、テレビに夢中で気づかない。

床から生えた人間は色を持ち、影を持ち、姿が明確になった。それは私の記憶にあった。

「田中太郎…。」私の心の声が叫ぶ。

それが聞こえたのか床から生えた田中太郎はゆっくりと瞼を開き冷たいまなこで私を見た。床から出る胸は白く、否、青白く、血管が透けている。亜麻色の髪を無造作に伸ばし、切れ長の目、筋の通った鼻、薄い唇に尖った顎、間違いなく昭和三十年の田中太郎だ。私は死ぬ前に何故、田中太郎の幻影を見ているのだろうか…。

そう思った矢先、田中太郎は喋り出した。

「船場三津彦。」

「えっ?!」

「お前は楽に死なせない。」

「な、何故?」

「お前に染み付いた嫌な臭いがそれを許さない。」

「ど、どう言うことだ。」

「お前の快楽のためだけに、落とされたもの、潰されたもの、汚されたもの、殺されたもの、それらのものが、嫌な臭いを放っている。」

「…。」

「お前は何匹屠った?お前は何人殺した?」

「…。」

「あの女は、お前を絶対に許さないそうだ。」

「い、今更、何が出来ると言うのだ。」

「今更…。何もしない。」

「じゃあ、いったい?」

「大昔に準備は済んでいる。お前の思う通りには死なせない。」

「何を…。」

瞬間、床から生えた田中太郎は消えていた。

何故、田中太郎が現れたのか?

何故、田中太郎なのか?

田中太郎は何者なのだ?

田中太郎は何をしにきたのだ?

私には皆目検討がつかなかった。

田中太郎の言っていた事は誰も知らぬこと…。私の秘匿。私の唯一の快楽。

何故、田中太郎は知っていた。

まぁ、良い。

死期の迫ったこの状況で、死に体のこの状態で、いったい、今更、何が出来ると言うのだ。

私は私が思い描いた通りの人生を送れた。誰にもバレる事無く、快楽を貪れた。それを今更、どうすれば覆せると言うのか。


出現した田中太郎の言う通り、私は沢山のものを奪ってきた。純粋に私の快楽として。猛獣を屠るハンティングのようなものだ。

最初は小さな虫だった。

私が幼き頃、母が何気無く蝿叩きで潰した蝿。気持ち悪い色のはらわたを飛び散らせちゃぶ台の上でぺしゃんこになっていた。さっき迄、五月蝿く飛び回っていた小さな生命は、一瞬にしてついえた。

力無きものが、無慈悲に潰されたその姿に私の全身に鳥肌が立った。

体の芯から湧き上がるものを感じた。未熟な役目も成せない小さな陰茎が勃起していた。射精も出来ぬのに体中に快感が走った。

快感を覚えてしまった幼い私は、猿の様に同様の快感を追求するようになった。

初めは蟻。そして芋虫やバッタ。ザリガニやフナ。野良猫、野良犬と、自分を興奮させるのに、屠っていった。罪悪感などさらさら無い。快感だけを求める事が最優先だった。純粋に快楽だけを貪った。

何が悪いのか分からなかった。

人間は生きる為に、牛を殺す。豚を殺す。鶏を殺す。鯨を殺す。魚を殺す。

自分の食欲という欲望を満たす為だけに、殺す。快楽の為に命を奪う。

何が私の行為と違うのか、分からなかった。


 しかし、この様な私の成長を両親は、気味悪がって嫌悪したのだった。

私は何度となく叱られ、何度となく叩かれ、何度となく閉じ込められた。だからこそ、私が大人の体力を得た高校生の時に、私は躊躇なく両親を殺した。

この時、私は射精した。今まで感じた事の無い快感を得てしまった。

殺害した父を風呂場で切り刻んだ。母も同じく切り刻んだ。

腱を切り、関節を外し、腹を裂き、内蔵を引きずり出した。

二人は湯船の中で混ざり合い、どれが誰か、何がなんだか分からなくなった。

しかし、私は1つに混じり合ったその両親の姿に美しさを覚えた。耐え難い嫌な臭いに恍惚を覚えた。私は興奮の余り風呂場で気絶しそうになった。


 ぐちやぐちやの両親の亡骸なきがらは床下に埋めた。

夜な夜なその上で寝る事の心地良さ。殺害の記憶が蘇る身震いする思い。返り血の温かさ、切り口から覗く気味悪い色、生臭い臭い、どれもこれも言葉では言い表せない感動。

1つになった両親のむくろは私のコレクションの第一号になった。


 私は次なる快楽を求めていた。

人を殺めた後では、小動物の破壊など、もう取るに足らない事であった。

そんな中、偶然に私は当代の流行り物の【映画】と言うものに出会った。

むせ返るような熱気が渦巻く館内。入り混じる様々な臭い。目を焦がす程の光。耳をつんざく大音量。

私には、焼夷弾が破裂する轟音、炎に焼かれ悲鳴をあげる人、町をなめ尽くす地獄の劫火、鼻腔に残る焦げた臭いといった、忌わしいのにそれでいて心躍る少年時代の情景が思い出された。その記憶と共に私の成長した陰茎はズボンの中で固く勃起していた。

『これだ。』

大衆は、この馬鹿馬鹿しい喧騒を欲している。何の役にもたたない熱を欲している。自分の中の抑え込んだ欲望を放出したがっている。

『どいつもこいつも私と同じじゃないか…。快楽を求めているだけ…。』

この瞬間、私を快楽へ導く次のものを理解した。

「流行りものに群がる意味無き大衆の熱…。無知で盲目たる大衆の先導…。迷える子羊たちとはよく言ったものだ…。」

一人二人をコソコソと蹂躙じゅうりんするのではなく、無知な大衆を私の思い通りにする。それも、奴らが気づかないように。私の手の平の上で踊らせてやる。生かすも殺すも私次第。幼き頃の蟻んこが人間に代わるのだ。こんな愉快な事はない。考えただけで興奮が収まらない。


 それからの私は映画館を渡り歩き調査を行った。映画というものを調べ、学び、標的を探した。

その上で新開地のこの家族経営の映画館に行き当たった。時代に乗り遅れた洋画館。家族による零細経営。乗っ取れる可能性は高い。

そして、私はこの映画館に通いつめ標的を調べ上げ、手中にする手筈に入った。


 館主夫妻、少女なる一人娘、年老いた映写技師、その他、少数の従業員。こんなもので映画館の運営はなされていた。

『先ずはこの映画館に入り込む事が先決だな…。』

しかし、当世流行りの映画館は引く手あまたの人気の職場。面識もコネも技術も無いどこの馬の骨か分からない人間を雇入れる事などない。

『欠員を出させなくてはいけない…。それも簡単に代えの利かない…。』試行錯誤している時間が楽しかった。自分の快楽を満たすための行動にワクワクした。新しい玩具を手に入れることに夢中だった。


 この映画館の年老いた映写技師は糖尿病を患っているらしい。この映画館を観察し調査する事で知ることとなった。

元々が大酒飲みだったようで、不摂生な生活が祟り、糖尿病を患うようになったようだ。

今は、映画館の館主からは断酒を言い渡されているようだが、この大酒飲みの老耄おいぼれは、そんな強い意思を持ち合わせていない。目の前に酒があれば誘惑に勝てはしない。館主の言うことなど聞く耳は持たない。今も変わらず飲酒している。こんなに雇い主の指示を無視しているのにクビにならないのは、それだけその技術者が人手不足であるという事を露呈している。


 私は匿名でろうねぎらう振りをして映写室の扉の前に酒を差し入れてやった。

映画館の調査のために何度も来館した。上映中は館内をうろつく者などはいない。

館内を歩き回り建物の詳細を図に起こしておいた。

三階席へ向かう階段を上る。三階席に入るのいきどまの踊り場。そこにある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉を開ける。コンクリート打ちっ放しの階段をもう一階分上がると映写室に入る扉の前に到着する。そこに闇市の酒場で「即席焼酎」と呼ばれる【バクダン】と言う尼崎で作られている密造酒を差し入れてやった。これはかなり効くはずだ。

私は年老いた映写技師の差し入れを始めてから毎日のように映画館に通い、入り浸る。『必ず思い通りの事が起きる。』と…。


 相変わらず映画の人気は凄まじいものが有り、一見、時代に乗り遅れた人気薄の洋画館でも一回の上映終了時には強制的に客の入れ替えが行われる。酒の差し入れを始めた私はいつ起こるか分からない事をじっとして待っていなければならない。

上映中に席を離れトイレに身を隠す。次の上映が始まったら立ち見客を装い館内に居座る。

こんな事を繰り返していた。しかし、十日も続ける内に待ちに待った機は訪れた。『上映が止まった…。』

私が思い描いていた事が現実に起った。『老い耄れ大酒飲みの映写技師が…。』私はほくそ笑んだ。この機に自分をアピールする。

この映画館の全体を私はこっそりと調べ上げておいたので、映写室も事務所も迷う事はない。映写室には年老いた映写技師が倒れていた。『バクダンの効果は絶大だった。失明・死亡率の最も高い悪酒だけある。』

映写機についても徹底的に勉強しておいた。我ながら見事な対応だった。

それを館主がいたく気に入り、私にここで働く事を勧めてきた。

面白い様に事が進む。思い通りに事が運ぶ。


 二年掛けて映写技師の免許を得ると、糖尿病の老耄おいぼれのポンコツは居なくなった。

ここを奪取するための第一段階は問題無く終わった。次は正式にここを奪う。それは至極簡単な事だと思えていた。

あの男が現れるまでは…。

 

 ここの館主夫妻には女学校に通う恵美子という娘がいる。館主夫妻に似ることなく、美しい容姿と華やかな器量を持ち合わせていた。

恵美子は映画も好きなようで、暇があれば映画館の表の仕事の手伝いや、裏方たちへの気遣いに余念がなかった。

私の籠もる映写室にも度々訪れた。

蒸し暑い映写室で二人して映写室の小窓から映画を観たこともあった。

この娘を籠絡させ、正式に婚姻を結べば、自動的にここは私の手に入いる。

娘も歳の近い私を気にいっている風だし、第二段階は、他愛もない作業だと思っていた。


しかし、田中太郎が現れた…。


 娘は一目で田中太郎に恋焦がれた。周囲が見えなくなる程、入れ込んだ、没入した。

だが、田中太郎は盆を過ぎれば居なくなる。娘にとっての短い憧れにしか過ぎないはず…。

しかし、私はそれに焦りを感じた。

案の定、娘は田中太郎について行くと言い張る。全てをなげうってでも、田中太郎と一緒にいるという。


 結果的には、恵美子は消え、館主夫妻は衰弱、ほんの暫く、甲斐甲斐しく世話した私に映画館は勝手に転がり込んできた。結果オーライだった。

しかし、時代はテレビの台頭で映画の衰退は目に見えていた。私は方向転換する事にした。

それは平和になって余裕を持った大衆が本能を満たそうとする。動物的な欲求。

性産業への転換を計る。


 昔気質かたぎの従業員たちは大反対した。そして全員辞めていった。良い厄介払いが出来た。

私は運営体制を一新してピンク映画の上映館に転向した。

思い通りにこれも大当たり。新開地に数多あまた有った映画館は次々と無くなっていく。流れを読めない者、情報を持っていない者は、ことごとく消えていった。自然淘汰されただけ。

私の映画館は欲求の捌け口を求めるオスどもで日夜満員御礼だった。オスどものドロドロとした欲望。一瞬たりともスクリーンから目を離さない血眼の目。生臭い息づかい。いきり立っているだろう股間。どれもが映写室から覗く私を興奮させた。『愚かなるオスども、不毛な事に熱狂すれば良い…。』

おかげで私は儲ける事には、何ら苦労はしなかった。


 性産業に手を出すと、必ず危ない輩が近づいてくる。私の元にもやってきた。

日本全体を裏から牛耳る【××組】。

しかし、当時、やくざと知り合えた事は、私にとってまた幸運だった。

ピンク映画では我慢できないオスは必ず出てくる。だから、やくざに騙された女を使い【青線】を経営した。ピンク映画を鑑賞した後のオスどもに声をかけさせる。面白いように釣れる。釣れたらやくざの息のかかる連れ込み旅館へ連れていく。

料金は、組:私:女、で、6:3:1で分ける。面白いように儲かる。しかし、不衛生と不特定多数の性交から性病が蔓延すると警察と保健所が出張ってきた。それを上手くまとめてくれて【青線】から【トルコ風呂】への昇格の筋道を付けてくれたのもやくざだった。

彼等のおかげで私は夜の世界に蔓延はびこる事が出来たこと。警察にパイプが出来たこと。政治家に取り入れたこと。私の資産目当てで近づいてきたメスどもと婚姻を結び、保険金目当てで処理出来たこと。

そして全てを洗浄して気質かたぎの世界で地位と名声を得る手助けをしてくれたこと。

私の思い通りの快楽を彼等は私に運んでくれた。


 しかしなが、この人生に於いて私が思い描いていた事と一つだけ違う事があった。

それは「子」だった。

始め、私は子供など、保険金を掛けておいて何時でも始末すれば良いと、思っていた。私の快楽の一部となって消え去るモノだと考えていた。

それが、成長するに従って、私に対して、純粋な依存、疑う事無き従順を示すようになってくる。私の血肉を分けた分身が私に対して無条件に全幅の信頼を持つ。私を無条件に崇める。そう思うと私は、私の分身に私とは違う快楽を追い求めてもらいたくなった。私の持ったであろう可能性を見せてもらいたくなった。だから、私の九つの分身には彼等の欲する各々の快楽を追求させた。それはなかなかに面白いものを私に見せてくれた。私とは違う方向に歩み出した。私の知らない快楽を見せてくれた。本当に良い人生だった。私亡き後は、私の分身たるこの子たちに託す。私のような快楽の探求者に成らんことを…。私の愛おしき子孫たち…。私の宝物たる子孫たち…。

『死を前にお前たちに囲まれている時間は何事にも変え難い快楽だ…。』


 死期を前に田中太郎の夢を見るなんて、最後の最後に悪い冗談だ。

さあ、ぼちぼち眠ろう…。

その時、

「お父さん。テレビ見て下さい。お父さんの映画館ですよ。」息子の一人が呼びかける。

『私の映画館?』

いつの間にかローカルニュースの番組は終わっており、それは国営放送のドキュメンタリー番組だった。

現在迄残る懐かしいものを特集しているようだ。

私が貰い受けた映画館は気質かたぎの仕事に戻る際に、神戸市に寄贈した。

やくざは何かと面倒臭いピンク映画館の運営よりも、商品(女)の手配が簡単で、明確に日銭が入るトルコ風呂の経営を取った。

寄贈した映画館は市の公的資金を使い、暫くの間、細々と運営されていた。少年少女のために、健全な情操教育用映画の上映や、多目的ホールとして続けていたが、時代とともに需要が無くなり閉館を余儀なくされた。

その後は、歴史的遺産、歴史的資料と銘打って、市が博物館として保存してきた。

この番組では、博物館を使い、昔の映画館の様子を再現し放送するようだ。


 学芸員とアナウンサーがあれやこれや見つける振りをして視聴者へ向け説明をしている。

「…で、先日、昔のフィルムが見つかったそうですね。」

「ええ。偶然掃除をしていましたら映写室から…。」

「今日はこの後、整備し直した昔の映写機で上映して頂けるという事なんですね。」

「はい。昔のカーボン式映写機を改良と修繕致しまして、昔のフィルムを上映出来るように致しました。」

「フィルムには何が映っているんでしょうねぇ…?」

「私たちも今日初めて見るので楽しみです。」

「それではこの後、生放送で上映致します。お楽しみに…。」

『この番組は何を言っているのだ。そんなはずはない。あの映写室からフィルムなんて出てくるはずがない。』


 「ビィィィィ…。」開幕のベルが鳴る。

スクリーンに光が刺す。黒い何かかが表れては消える。カタカタとフィルムを巻き上げる音。チリチリとノイズの入る独特な真空管アンプの音。


瞬間、スクリーンに映像が表れる。

「やめてぇー。」

「貴女が悪いんですよ。」

部屋の壁に押さえ付けられている若い女。その女の首を絞める若い男。

「お願い…。」

「今更ですよ。貴女が諦めないから。」

女は目から涙を流す。男の腕を引き払おうともがく。男は笑顔で女の首を絞め続ける。

「たす…。たす…。」

「もう少しで楽になれますよ。」

女は動きを止めた。女の口から涎が、鼻からは鼻血が…。男は最後の力を振り絞る。女の首を絞めるひっ掻き傷だらけの男の腕が震えている。

「貴女の遺体はバラバラにして…。にかわにして…。塗料と混ぜて…。僕の映写室の壁に塗り込んであげますよ…。第二号のコレクションとして…。」

女は舌を出している。男の額には血管が浮き上がっている。興奮で息が荒い。

「恵美子お嬢様…。」

男は馬鹿にする様な笑顔と共に女の名前を吐いた。

「…。許さない…。…。…。…。船場三津彦。」

女は最後に残った生命力を振り絞って男の名前を叫び上げ息絶えた。

ここでフィルムは終わる。スクリーンには真っ白な眩しい光だけ。

アナウンサーも学芸員も言葉が出ない。


そんなはずはない…。

誰が撮った…?

誰が覗き見れた…?


ふと、私は私に刺さるものを感じた。

そこには、八十個以上の目が嫌悪を持って私をにらみつけていた。

「お前たち。何故そんな目で私を見る?何故そんな軽蔑するような…。」

その刹那、私の心臓は動きを止めた…。





おわり


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七つの鉄槌 1  明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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