第18話

 ある日の昼間、ソファベットに横になり、タバコを吸いながらテレビを見ていた。部屋の向こうから、ギシギシと廊下の床をきしませる音がする。人が通り抜けるだけで、建物が揺れてるように感じるボロアパートだ。

しつこく隣の部屋をノックしている音がする。

「こんにちは、警察です。いらっしゃらないですか?」

そんな声が聞こえてきた。

僕はドキッとして慌てて身体を起こし、吸っているタバコを消して耳を澄ませた。

——隣の部屋に?なぜだ?

そんなことを思いながら木製の引き戸の上の部分にはめられた磨(すり)ガラスを見ていた。

ボソボソとした話し声と一緒に磨ガラスに人の黒い影が動く。今度は僕の部屋をコンコンとノックし始めた。

「すいません。警察です。いらっしゃいますか?」

出るか、出ないか迷った。が、このボロアパートだ。テレビの音量は廊下にも漏れているはずである。

わざと寝起きのような顔をして引き戸を開け廊下にでた。制服の警察官が二人立っている。

「お休み中にすいませんね。お兄さんはこの部屋の方ですか?」

「はい、そうですが?」

制服の警察官で、僕は一安心をした。制服の警察官なら部屋の中にいきなり入ってくることはないだろうし、せいぜい巡回みたいなものだ。

「お仕事は、なにをされているんですか?」

「歌舞伎町で夜、水商売の仕事をしています」

あくびをするふりをしながら、めんどくさそうに僕は応えた。

「すみません、お休みのところ。つきあたりの部屋の人、ご存知ですか?」

「さぁ?起きるのがいつも遅いのでわかりませんね」

優しそうな警察官だ。僕との話を終えると順番に隣の部屋、またその隣とノックをしていた。こんなことが十日に一回くらいから、一週間に一回と頻繁に来始めた。

今日は午前中に一度来て、なんと夕方にもう一度来たのだ。

ボロアパートには、でっぷりと丸まる太った三人の中年客がいた。三人が三人とも、なかなか買うビデオが決まらず、右往左往している。

ただでさえ狭い部屋がもっと狭くなる。

僕は、「早く決めてさっさと帰れよ、だんご三兄弟」と、吐き捨てるように心の中で呟き彼らを見ていた。

二人は試写用のテレビの前に座って長々と画質と音声の確認をしている。一人は棚の前でビデオ雑誌を片手に、タイトルの確認をしている。また順番に部屋をノックしている音がした。

しょっちゅう来始めた警察官のことが気にはなっていたのだが、午前中に来たこともあって、僕は全然気にもしていなかった。

「――すいません。警察ですが」

磨りガラスに映る二人の黒い影。なにやら、コソコソと話し声も聞こえる。

――またかよ?今日は、二回目だぜ、まいったなぁ。客も結構いるしなぁ……

そんなことを思いながら、四畳半の部屋を見渡した。

だんご三兄弟は、そろいもそろって、「だるまさんが転んだぁ!」と、振り返ったときの子供のようだ。

目をまんまるにした、びっくりした顔の静止画像である。

だんご三兄弟は、一斉にギクッとした顔で口をすぼめ、「うっ」と発音するときの口の形になっている。不意に梅干しを口に入れたときみたいな顔だ。顔をしかめ、息を殺し、じっと微動だにしない。

続けてノックをする音がした。

ひとりのだんごは、手を肘から上にあげ、顔も棚に向けたまま。

また、ひとりのだんごは腰を少し落として、片手にビデオ、片手にビデオ雑誌を持ったまま、両手を広げた状態で固まっている。

そこまで固まるか?手ぐらい下ろせばいいだろう、と思いながら、僕は視線をだんごたちから引き戸へ向けた。

「すいません。警察です。いらっしゃいませんか?」

警察官のよく通る大きな声に、だんご三兄弟は、すがりつくようにいっせいに僕を見た。

びっくりした顔から、「助けてぇ、勘弁してぇ」という泣き出しそうな、困った顔に一変している。

警察官は、この部屋を通りすぎて、突き当たりの部屋に行く時に人の気配は感じているはずだ。午前中にも来ている。出ないわけにはいかない。

僕は、静止画状態のだんごたちに口元に人差し指を立てて「しーっ」としながら引き戸を開けた時に、廊下側の警察官からだんごたちの姿が見えないように、そっと静かに引き戸から死角になる左奥へ動くように手で誘導した。

体をプルプルさせながら、つま先歩きで狭い四畳半の部屋の中を、ペンギンみたいに息を殺して移動していくだんご三兄弟。

たかだか一歩か二歩の距離なのだが、彼らの慎重さと、必死さが伝わってくる。

客がそろりそろりと移動したところで僕は、身体を横にして通れるくらいのほんの少し、引き戸をあけ廊下にでた。制服の警察官が二人いた。午前中に来た二人だ。

あきらかに僕に対して不審がった顔だ。

優しそうな笑みは、ひとかけらもない。

「何度もすいませんね。この二階に住んでいるのは、お兄さんだけですか?」

「さぁ、僕も夕方には出かけちゃうのでわからないですね」

このボロアパートは、階段を登って二階に上がると、入口に靴を脱ぐ共同玄関みたいなスペースがある。そこには、乱雑に脱ぎ散らかした三足の革靴があった。

一人の警察官は廊下から僕の部屋の中の気配を、聞き耳を立てるかのようにじっと見ている。

「お兄さん、あの入口に脱いである靴の持ち主達はどこにいるかわかりませんか?」

もう一人の警察官は、僕と話ながら振り返るように廊下の先にある玄関の靴を指差した。

「さぁ……僕も今起きたばかりで、わかりませんね」

一人の警察官はあきらかにイラついた感じで僕の顔を睨み、隣の部屋を激しくノックし始めた。

「お兄さん、名前と電話番号を教えてもらえますか?」

「名前は、佐藤一郎です。電話はないんですよね」

僕は適当な名前で答えた。警察官が手帳に書き込んでいる時に、間が悪いことにビデオの電話が鳴り出してしまったのだ。

「――お兄さん、電話あるじゃないですか!電話番号は!」

おまえ、なにか隠してんだろ?あんまり警察を舐めるなよ!という怒りのスイッチが入ったような怒鳴り声に変わった。

「ああ、すいません。最近つけたばかりで、電話があること忘れてました」

電話番号も適当に答えた。警察官も帰り、客も逃げるように慌てて帰って行った。

地域住民からの苦情が相当数いっているのだ、と僕は初めて気がついた。

今まで人の出入りなど皆無なボロアパートだ。それがここ何ヵ月かで昼夜問わず、錆び付いた階段をきしませながら、大勢の男達が登り降りするのだ。そりゃぁ不気味だろうと思った。

警察官もいつ来ても僕しか出てこないボロアパートだ。

まさか裏ビデオを売っているとは思ってないだろうが、なにかあるというような疑いをもった顔で帰って行った。

元々、不動産屋も通さず、契約書すら交わさず入居している物件である。僕はすぐに西新宿のビデオの問屋の社長に電話を入れた。これまでのことと今日起きたことを話した。

「瀬野ちゃん、大変だったなぁ。そのアパートはもう引き払ったほうがいいよ。

今すぐ瀬野ちゃんが使うものだけ持って出ちゃったほうがいいな。今日の夜中に車でそっちに行って部屋に残っているものは俺らで処分しておくよ。客が付いてきたのにもったいないけどなぁ」

客が付くという状況まで、僕は全然考えていなかった。目立ち過ぎたのだ。目立っちゃダメなのだ。社長に電話したあと、秀司にもすぐに電話をした。

「マジかて!二回もお巡りさん来たんか?

西新宿の社長の言う通りやな。すぐに運べるものは運んじゃおう。

マジで夜逃げやな。夜逃げの瞬発力はあなどれんなぁ。

すげぇな、夜逃げって。夜逃げって、こんなかんじなんやな」

秀司は電話の向こうで「夜逃げ」という言葉を連発しながら、なぜか盛り上がっている。

僕は棚に並べてある裏ビデオやビデオデッキは、秀司と一緒に彼のアパートへ急いで運んだ。

洋服や靴、自分で使っているものは、その頃付き合っていた吉祥寺の彼女のマンションにタクシーで運んだ。

彼女に事情を説明しながら、彼女の部屋のクローゼットに洋服を掛けたり、靴を並べたりしていた。

「哲ちゃん、いきなりこんな形で私達の同棲生活が始まってしまうのね。

――心の準備が……」

日付が変わろうとしていた。

僕の二の腕を、無邪気にポンポンポンポンと激しくたたき、大きな口を開けて笑い、大ハシャギしている彼女がそこにいる。

僕の荷物の片付けを手伝ってくれる彼女の弾けるような笑い声に、激動だった今日一日の疲れが一気に吹っ飛んだ気がした。



 目立っちゃダメなんだ、悪事は。そっと静かに隅っこで、こそこそとしなければならないんだ。この一件で僕は痛感した。

今度の物件探しは部屋を選べる立場になった。(駅から徒歩五分以内。管理人はいないこと。すぐに入居できる部屋。世帯数は多ければ多いほうが良い。場所は山手線の圏内ならどこでも良い)こんな不自然な条件で、僕は不動産屋をハシゴしていた。

不動産屋もピンときたのかもしれない。

とある駅前にある十階建ての赤茶色の大きなマンションを紹介してくれた。

十畳のワンルームにユニットバス、電磁コンロがある七階の部屋だ。電話線の差し込み口から三本のコードが剥き出しのままだ。

ここも夜逃げでもしたデートクラブの事務所じゃないか?と思った。僕も秀司ではないが、「夜逃げ」の行動力と瞬発力の凄さに、感銘を受けたひとりだ。「感銘」という言葉は、ここでは使わないとは思うが。

とりあえず僕の条件は満たしている。この部屋に決めた。

しかし、「目立っちゃダメ!そっと静かに隅っこでこそこそと」とは真逆のことを、僕は知らず知らずのうちにしていたのだ。

ボロアパートで大成功している時に、ちょくちょく藤間さんや西新宿の社長を紹介してくれた小柴さんが遊びに来ていた。

小柴さんはいつもビールやポテトチップスなどを持って遊びに来ていた。

そこで、マンションでビデオ屋をやってみたいという、藤間さんの後輩や小柴さんの友人に裏ビデオ屋の開業の仕方(仕入れ、広告の打ち方、開業してから気をつけること)等を手取り足取り教えていた。

大久保から夜逃げした新しいマンションにも藤間さんや小柴さんは遊びに来ていた。そこでも、ビデオ屋を始めたいという人を紹介されれば、裏ビデオ屋の開業の手ほどきをしていた。

全部で十人くらいに教えた。

裏ビデオは違法である、逮捕されることだという緊張感がなくなっていたのだ。みんなうまくいけばいいですね!みたいなノリでラーメン屋のフランチャイズじゃあるまいし、僕の息のかかった店がどんどん増えてしまったのだ。

内情を知らない人間からしたら同じ系列グループのように見えるだろう。

もちろん教えるにあたって一円の金も貰っていない。チェーン店でもグループ店でもない。

周りの年上の人からチヤホヤされている僕は、得意になって紹介されるがままに親切に教えまくっていたのだ。

リスクが増える、ということに全然気がつかなかった。

人の口に戸は建てられないということも。

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