2020年、春に届いた1980年代~の歌舞伎町からの便り
凌 伍壱
第1話
今、僕は髪を切ってもらっている。
歌舞伎町のシンボルだった新宿コマ劇場跡地にできた、TOHOシネマから少し歩いたところにある、築六十年以上は経つであろう古びた雑居ビルの中にある理髪店だ。
この店で、僕は三十五年、髪を切ってもらっている。
入口の自動ドアを開けると目の前に小さな椅子が三つある。待合室というほどのものでもないが、本棚にはヤクザ関連の漫画や週刊誌がびっしりと置いてある。
丁寧に磨かれた曇ひとつない大きな鏡。年季の入った黒皮のリクライニングチェアーは、座席のへこみを厚めのクッションを敷いてごまかしてある。壁に掛けれられた扇風機はカタカタと音を立てて首を振り、ダイヤル式のピンク電話は今も健在で、整髪料のさわやかな香りが立ち込める店内は昭和のままだ。
たまに一見さんも来るらしいのだが店の雰囲気にあわないのか、一度きりになることが多いらしい。アウトローな方々や歌舞伎町の住人には大人気の店だ。
予約を取るのが大変困難な繁盛店。
新型コロナウィルス以前は……繁盛店だった。
いつものように店内に流れるAMラジオ。
いつものようにチョキチョキとリズムを刻むようなハサミのいい音。
「――新型コロナウィルスで歌舞伎町ガタガタですよ。お客さんも全然来なくなったし。……長年、歌舞伎町にいるけど、これだけの数の臨時休業や閉店のお知らせ、テナント募集の貼り紙なんて今まで見たことないですよ。だいたい、この街で空いているテナントがあっても、次の入居者はいつも決まっているものなんですよ。これだけメディアで新宿悪だ、歌舞伎町悪だと報道されればしょうがないですよね」
歌舞伎町のホストクラブからコロナウィルスのクラスターが多発していると、連日メディアのトップニュースで扱われている真っ只中だ。
少しやせた無精髭に黒縁の眼鏡、真っ青なジーンズに濃紺のシャツを肘までまくっているマスターがハサミの手を休めることなくつぶやく。このマスターは僕がこの店に来た時からすでに働いていた。
彼も歌舞伎町が長いので、この街の昔話で盛り上がることがある。歌舞伎町という街がキラキラしていて、いろいろな本や映画で語られている元気だった頃の歌舞伎町。人々の欲望や熱気で毎日がお祭り騒ぎだった頃の歌舞伎町。
「瀬野さんも今まで見たことないでしょう?こんな歌舞伎町を。もう何年になります?歌舞伎町に来て」
僕は十七歳で地方の高校を中退して家を出た。なんのあてもなく、ただただ東京に憧れ、新宿という街に憧れ三十五年近くこの街に住み着いてしまった瀬野哲也。
「もう三十五、六年くらいになりますかね。一緒に遊んだ友達も知り合いも、誰もいなくなっちゃいましたよ」
「三十五、六年ですか。今、歌舞伎町で遊んでる若い子達に僕たちの若い頃の話をしたら、僕たちが昔、おじいちゃんやおばあちゃんから子供の頃聞かされていた、終戦直後の話みたいに聞こえちゃうんですかね?」
マスターは笑いながら問いかけてきた。
「そうですね。僕らからすると昨日のことのようだけど、三十五年も前の話ってそんなふうに聞こえるかもしれないですね。漫画みたいな信じられないようなことが毎日起きていた街ですもんね。田舎から出てきて驚くことだらけでしたもん」
「ですよね。自分も同じですよ。――でも、この街、本当に壊れちゃうかもしれませんね。どんな人間も、どんなに時代が変わっても、すべて飲み込んできた街だけど。……このコロナウィルスだけは飲み込めないかもしれませんね」
僕の正面にある、大きな鏡越しに映る寂しそうなマスターの横顔。
「いやぁ、なにが起こるかわからないのが歌舞伎町じゃないですか?また盛り返す時が来るんじゃないですか?この街の底力は凄いですよ」
僕の返事に少しだけ、鏡越しのマスターが笑った。
ラジオからAM放送が流れている。またコロナ関連の話題だ。2020年は春からずっと、新型コロナウィルスの話だ。2020年の夏は『特別な夏』だと、ラジオのパーソナリティーがため息まじりにつぶやいている。
「瀬野さんって何歳になられるんですか?」
マスターがヒゲを剃る泡をシェービングブラシでかき混ぜ作りながら尋ねてきた。
「もう五十五歳になりますよ。禿げてきたし、白髪も増えてきましたしね」
「五十五歳ですか?そんなになりますか。お互いシニアですね」
改めて五十五歳と口にすると不思議な感覚になる。見た目は禿げて白髪が増えているのに自分の中身はなにも変わっていないように思う。
その事をマスターに告げてみた。
「みなさん、そうですよ。常連さんで都内に七軒飲食店を経営されている社長さんがいるんですが、このコロナで四軒閉店したそうです。
二十代からコツコツと堅実にやられてきた方なんですが今回のコロナで、数億円の融資を銀行から受けたそうです。でも、社員の給料は減らさず、解雇者も出さずもう一度頑張るそうです。
二十代の頃とは知恵も経験も違う。俺は全然やれると。
六十歳過ぎて孫もいるのに、振り出しに戻るどころかこんなに借金するなんて思ってもみなかった、とおっしゃってましたよ。人生本当にわからないものだと」
マスターは泡立てた陶器を、テーブルにそっと置きながら話を続けた。
「見た目は六十過ぎの爺さんだけど、気持ちは店を始めた二十代の頃のままだと。当時と一番違うのは社員が増えたこと。その社員にも家族がいて生活があるということ。一緒に頑張ってきた社員のためにも、もう一度自分がハチマキでもして先頭になって店に立つと。
だいたい、年齢のことを持ち出して言い訳をしたり、腰が引けた話をするオッサンなんてのは、若い頃からその程度のものなんだよ。
やる奴はやるさ。年齢なんか関係ないよ。気持ちだよ。
ただ、うちは息子二人が社会人になって独立していたのが本当にラッキーだったけどね」
そんなことを話していたそうだ。僕もその通りだと思う。僕も二十代の半ばにこの街で、小さいながらも一国一城の主になった。
山越え谷越えなんとかここまでやってきた。
――年齢じゃない、やる奴はやるか。……ホントその通りだな。
リクライニングチェアーの上で、なぜだか歯を食いしばりこぶしに力が入る。下腹にも、ぐっと力が入る。
最近、友人達と集まると、五十歳過ぎたら無理はできないとか、五十過ぎたら人生終わりだとか。この『五十過ぎたら』というワードにイライラしていた僕がいた。
「背中倒しますね」
ゆっくりとマスターが椅子の背中を倒した。
顔をそっと蒸しタオルで包んでくれた。
古ぼけたラジオから『雨音はショパンの調べ』という曲が流れ出した。
右も左もわからない歌舞伎町をウロウロし始めた頃、そこらじゅうでよく流れていた歌だ。
そんなことを思いながら、僕はゆっくりと深く目を閉じた。
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