第108話 なにもかも、マチガイ
炎から離れるにつれ、氷結魔法は力を増していった。
壁を使わなくても上へ伸ばせると感じ、私は再び足を止めた。
まずは自分たちのいるスロープの先端を、ぐるりと手すりで囲む。
「手すりを掴んでください。一気に押し上げます!」
獅子戸さんが身構えたのを確認し、足場の氷をクレーン車のように下から伸ばした。
氷が壊れては再構築する、ガシャンガシャンという激しい音が響いた。
走り登るより断然早い。
しかしなにぶん初めてのことで力加減がうまくできず、天井裏の空間に飛び出してしまった。で、今度は急ブレーキで体が揺さぶられる。
「わあっ!」
と、自分の魔法なのに情けない声を上げてしまった。
『ようやく来たか』
まずい!
思ったよりも声が近い……!
慌てて視線を上げる。上げ、る……。もっと首を持ち上げる……!
大蜘蛛は真正面にいたのだが、問題はその大きさだ。
こんなに大きいのは奈良の大仏様くらいしか見たことないかも。ちょうど
……いやいや、そんないいものじゃないでしょう。
私が馬鹿なことを考えている横で、獅子戸さんが一歩前に踏み出した。
「私は防衛省地下迷宮対策部、千葉支部の獅子戸だ! 話し合いに来た!」
『おやまあ、ご立派なこと』
大蜘蛛はさも驚いたという声を出し口元を覆った。
貴婦人のような振る舞いにローブの裾がふわふわと揺れている。まるで煙だ。
何十個もある赤い目も、ゆらゆらして見える。
目の錯覚か……?
『それであんたは、どうしたい?』
「え? どう……って……」
思わぬ問いかけに獅子戸さんはたじろいだ。
「い、いますぐここから立ち去ってもらいたい!」
うんうん。そうだそうだ!
獅子戸さんの力強い発言に、私も心の中で強く同意する。
だが大蜘蛛は、まるっきり余裕ぶっている。
『なにもかも、なかったように?』
「なにを言って……」
氷のクレーンの上で、獅子戸さんがぐらりと揺れた。滑ったというより、ふらついたようだった。手すりを掴んでくれていたからよかったものの、私も咄嗟に肩を支える。
『ああ。そう……。すべて幻のように。全部なかったことにしよう』
大蜘蛛の声はどこまでも落ち着いていて、引き込まれてしまう。
『苦労は水の泡。意味のないことに必死になっている。人生を捧げたことが間違いだった』
その声は、変な話だが、どこか
『その洞窟は、記録にも記憶にもないようだね。確認しにいくのかい? 新しい洞窟を自分たちの手で発見したかった? それともただの好奇心? ケイビング協会のヒーローにでもなりたかったのかい?』
この蜘蛛、なに言ってんだ?
『厳しくも優しい先輩ガイドにベテランガイド。二人と一緒なら大丈夫? そしてどうなった? 山岳ガイドの獅子戸莉花。お前は何をした? お前のしたことは最初からなにもかも、マチガイ。お前は悪い。正しくない人間だ』
訳のわからない話に私が戸惑っていると、獅子戸さんが膝をついてへたり込んでしまった。
「ええ! 獅子戸さん!?」
「なにもかも、間違い……」
虚ろな目をしてうわごと言ってる!
「間違ってません! いや、間違ってたとしても頑張ってますよ! 間違いますよ、人ですから!」
慌ててしゃがみ込んで励ますが、獅子戸さんはすっかり気力を無くした顔をしている。
幻覚でも見せられてるのか?
彼女の意識をこっちに引き戻したくて、私は獅子戸さんの手を取った。
「獅子戸さん、大丈夫です。角度を変えてみたら合ってるとか、遠回りだったとか、そういうこともありますが、結局、最後に帳尻が合えばいいんです。人生なんてそんなもんです」
『獅子戸莉花。ダンジョンと知らずに洞窟に入って、そしてどうなった? 先輩ガイドの二人は、どうなった?』
「うう……、か、彼らは、私のせいで……」
なんてことだ。それが、獅子戸さんの過去。
そんなことがあって、獅子戸さんは必要以上に責任感を持って、この仕事に……
『さあ獅子戸莉花、お前の恐怖を語るがいい』
「わ、私は……、私たちは、ただの洞窟だと思っていたダンジョンの奥で……モンスターに出会い……、私は、逃げようとして……、ただ、逃げようとして……」
どうしてもその続きが言えないとばかりに唇をわななかせる獅子戸さんに代わって、大蜘蛛が楽しそうに話した。
『逃げようとした? ふふふ。勇敢な獅子戸莉花。お前は立ち向かおうとしただろう』
「違う! 違う!」
『お前の力が発動した。力の使い方をまだ知らなかったお前は、最大出力で二人に電撃を喰らわせたのだ。そしてダンジョンを出ると、それをモンスターの攻撃にあったと報告した。そうだろう、獅子戸莉花。お前は悪い人間だ。お前のしたことは全て間違っている』
獅子戸さんの体からはすっかり力が抜けてしまい、私は慌ててクレーンに壁を立てて彼女を支えた。
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