余章 そのときの彼女

獅子戸 莉花

 私の生まれ故郷は山に囲まれている。


 だから、物心着く頃には「山に関わる仕事につきたい」と考えるようになった。それは私にとっては当然のことだった。

 山を愛するだけでなく、多くの人に山を愛して欲しいと思い、山岳救助隊になろうと決めたのは小学生の頃だった。

 体格には恵まれていなかったから、両親も大賛成とまではいかなかったが、私は意に介さなかった。持って生まれたハンディは、トレーニングを積んで、体力と技術を手に入れていくらでもカバーできる。


 いや……、そんなことは、いまはどうでもいい。

 私は今、無性に故郷の山が恋しい。

 木々のざわめきが、鳥のさえずりが、耳につく虫たちの騒ぎ声が。

 現実から逃げ出して、あの木漏れ日の中に帰りたいと思ってしまった。


 モンスターの消失。

 無意味なダンジョン攻略。


 雲の上の上官たちが、巨大で美しい会議室で、喧々囂々けんけんごうごうの議論を繰り広げている。


 そのすみっこの、壁に埋もれるように配置された椅子に、私と青木は並んで座らされていた。 


「ダンジョン攻略自体が無意味だなんて知られたら、資金援助はなくなるぞ」

「『消失』については機密事項だ。あの男には知られてはならない」

「DORAGO-Nは、なんでこんな大変なことを日本に押し付けるんだ……」

「泣き言を言っても仕方ないだろう!」


 噂には聞いていた。

 入り口付近には、なぜモンスターがいないのか。

 なぜ研究用のモンスターでさえ、ダンジョンの外に持ち出さないのか。


 まさか、本当だったのか……


「獅子戸さん……」

 青木が囁く。

「もしかして、初耳でしたか……?」


 彼は不安そうに見えた。いや、無知で鈍感な私を笑っているのかもしれない。表情を読むのは得意ではない。


 私は答えられなかった。


 ダンジョン攻略は、無意味。

 モンスターは外に出られない。


 私が初めてダンジョンに入ったのは、まだダンジョンというものが世に知られる前だった。

 山岳ガイドの仕事中、記憶にない洞窟を見つけた。

 仕事終わりに仲間と調査に行き、そして……



「獅子戸、聞いているのか?」

 気がつくと、広い会議室には私と青木、上官の三人きりになっていた。

「はい」

 反射で答えた。聞いてはいた。聞いていただけだが。

「技術班と、よく打ち合わせしておいてくれ。全部仕込みだなんて気がついたら、君のとこの連中はまともに動けないだろ」

「……ですが」


 反論しようとした私に、青木がぎょっとなる。

 中年男性の上司の目つきも、一瞬にして私を威圧し黙らせようとする恐ろしいものになった。強い気持ちを保ちたいのに、本能的に怯んでしまう。

 情けない。


 私は何とか下腹に力を入れた。

 私は、こんなことのために、ここにいるんじゃない。


「か、彼らに真実を……! すべて明かして、本人たちに選択させるべきです」


 あーあ、言っちゃった。


 そんな空気が青木から漏れる。

 人の感情を感知するのが苦手な私でもわかった。


 中年男性の上司は、大きなため息をついた。

「君はもっと頭がいいはずだよ、獅子戸くん。ダンジョンでヒーローにでもなったつもりでいるような連中とは違う。だからこの場にいるんじゃないか」


 それが褒め言葉のつもりなのか、上司はグロい選民思想を露呈させて、続けた。


「彼らのような連中に真実を打ち明ける? それじゃパニックになって収拾がつかなくなるぞ。こういったことは、一部の機関がきちんと把握して、責任を持ってコントロールすればいい。現に、これまでも状況は完璧に掌握できている」


 彼は勝ち誇った様子で背を向け、部屋を出ていった。


 一拍の間。

 青木が半分笑いながらこっちを見る。気まずいのか、それとも馬鹿にしているのか。どっちでもいいし、どっちでも気に食わない。


「まぁそういうわけですし、上には逆らわないでいきましょう。なにかあっても、責任を取るのは彼らです」

と、出ていった男の方に目をやる。


「なにかあったら……」

と、私は視線を落とした。


 蘇ろうとする、忌々しい過去と戦いながら。


「傷つくのは現場です。最悪、命を落とすのも……」


 なにが「消失」だ。なにが「無意味」だ。

 なにが、「」だ!


 清潔で安全な本部の小さな会議室から、お気楽な指示を飛ばして、ゲームみたいに「攻略」だなんて言ってる間に、いったいどれほど現場と、その家族と、周辺地域が傷ついているか。実際に負傷しているのか。


 間違って入り込んだ人たちが犠牲になっていることか。たとえそれが無知な判断ミスによる過失であっても、痛みに違いはない。


 人助けになると思ったのだ。

 もう二度とが起きないために。ここで働けば、それが防げるようになるのだと信じていた。


 消失しようが無意味であろうが、ダンジョン内で起きていることは現実だ。

 だが、真実を知って立ち向かうのと、知らずに送り込まれているのでは、明確に意味が異なる。

 その目的も、目標も、まったく違うものになる。


 それを、当の本人たちに知らせず、選択させずに、真実を隠蔽したまま一方的に指示を与えるだなんて……!


 私には、到底できない。


 だが……


 飲むしかない、のか……


 

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