第58話 まあ、気をつけて

 夕暮れの電車に揺られ、閑散とした駅から歩くこと十分。

 東京の北の外れにある築四十年の実家に到着した。


 近くに住んでいるのに、もう何年も正月にしか帰省していない。

 なんて親不孝者でしょう。


 駅から家までの道中で、なんだかすごく懐かしいような、そして悪いことをしているような気分になって、門を開ける前に慌てて母親に電話した。


「……もしもし?」

 応答したのは怪しむような声色だ。


「あ、母さん? あの、唯人だけど、近くまできたから寄って行こうかと思って」

「は?」

「あの、実は、もう家の前で……」

「なら電話してないで、入って来ればいいじゃない」

「はい……」


 それもそうですね。

 ごもっとも。


 古びた門を開けて、黒い軽自動車の横を通ったところで、玄関の鍵の開く音が聞こえた。


「ただいまー……」

 扉を開けると、そこにはいつものエプロン姿の母の顔。


「おかえり。どうしたの」

「いやー、どうってこともないんだけど……」


「その花」

「あ、花、これ……会社からもらっちゃって」

と、思わず差し出してしまうと、母も何気なく受け取ってくれる。


「そう……生けとく?」

「うん。うちじゃ、枯らしちゃうから」

「まあ、入んなさいよ」

 背を向けてリビングに向かう母に続いて上り框を踏む。


 なんか違和感が…… 

 なんだろう……

 よそよそしい?


 リビングには、いつもどおりソファで晩酌しながらテレビを見る父の姿もあった。


「おう、唯人。どうした急に」

「いやー、何ってわけじゃないんだけど。はは。たまには帰ろうかなって」

「ふーん、そうかぁ」

と、視線はテレビへ戻ってしまう。


 こちらもなんだか違和感が。

 いつもより覇気がないような……


「これから夕飯だけど、食べる?」

 台所へ移動していた母が、花を世話しながら声だけ投げてくる。

「ああ、うん」


 荷物と上着を端に置いて、流しで母の隣に並んで手を洗う。

 違和感の正体を知った気がした。

 母の背が、わずかにだが縮んだような気がしたのだ。年齢的にしぼむのかな、と思ったが、台所に立つ姿は変わらないようにも思う。


 振り返れば、テレビを見ている父にも、同じことが言えた。


「あらやだ」

と、母の声に我に返ると、ぎゅっとした顔でスマホを覗き込んでいる。

「お兄ちゃん、残業だって。あんたが帰ってきてるって送ったら」


 三つ上の兄貴は離婚してから実家住まいだ。さらに私には弟もいるのだが、彼は独立して、仕事の都合で地方に暮らしている。


「俺がいるから帰りたくなくなったんじゃないの?」

「何言ってんの! お兄ちゃんが一番心配してたんだから」


 そう言ったのを皮切りに、母は声のトーンを落として聞いてきた。


「あんた……元気にやってるの?」


 そこで私も思い出した。

 とっても重要なことを。


 あまりに急だったので、『地下迷宮対策部』に能力者として連れて行かれたと、両親に伝えていなかったのだ。


 完全な親不孝!


 もしあのとき死んでたら、正月に会ったきりの次男が知らない場所で知らないうちに帰らぬ人になるところだった。


 それとも、政府から連絡が来たりしたのだろうか?

 動画は、見たのだろうか……


 花瓶に花を刺す母と話したくて、私は袖をまくって水切りカゴの食器を拭き始めた。


「もちろん元気だよ。あのー、うまくやってます」

「そりゃ、あんたは上手くやるわよ。あたしの子だもん」

「そうだね」

「……危ないんでしょ?」


 あぁ、知ってるんだ。


「うーん。そうだね」

 私は明るい話題を探し回った。

「今までのどの職場より楽しいかな。チームのみんな、いい人たちで、みんな年下なんだけど、すごくいい雰囲気だよ」

「そう。それはなによりね。あんた年上ならしっかりしなきゃダメよ?」 

「年では上でも、体力とか、知識とか、気概とか、それぞれ長所がありますから、なんとも……」


 私が「ははは」と気の抜けた笑い声を出すので、母も肩の力が抜けたようだ。


「まあ、たまにはこうして、顔見せなさい」

「はい」


 冷蔵庫の煮物をチンしたり、出来合いの惣菜を皿に盛り付けたりと配膳を手伝っていたら、無言で父が食卓に移動してきた。視線はテレビで、ビールを飲み続けている。ザ昭和の男。


 母と揃って席について、「いただきます」と二人で手を合わせた。


 内向的だった私は、外遊びより家事手伝いを好んだ。母と並んで料理をしたのも懐かしい思い出だ。おかげで一人で暮らし始めても生活面での苦労はほとんどなかった。

 

「おいしいね」

 にっこり笑うと、母は呆れたように微笑み返してくれた。


 父と兄に愛想がないので、私は小さい頃から勝手に笑顔担当のつもりになっていた。可愛かった弟も、いつの間にか父をコピーした昭和の男になってしまったので、以下略。


 そんなことはどうでもいい。

 いまはこの絶妙な温度感の団欒をどう乗り切るかだ。


 乗り切るってなんだよ……

 無事を知らせに来ただけじゃないか……


「二人は元気にやってるの?」

「ええ、お父さんは最近、区の体操教室行ってるの」

「へー、いいねぇ」

と、振ってみる。

「うん、まあな……楽しいよ」


 沈黙。


「母さんは? 地域ボランティアどう?」

「それがね、民生委員やってくれないかって勧誘がしつこくて」

と、母が話し出すと長いし話題が飛びまくるし、ついていくのに精一杯である。


 しかしこのスパルタ教育のおかげで私の耳と反射神経の良さは鍛えられたのだ! ありがとう、母よ!


「まあ、とにかく」

と、急に父が割って入ってくる。いつものことだ。

「気をつけて」


 一言。

 それで、おしまい。


「うん、ありがとう」


 食べるだけ食べて、帰ることにした。


「いつでも帰ってらっしゃいね」

と、見送ってくれる母に、

「いろいろ忙しいと思うから、また正月かも」

と、靴を履きながら背中で答える。


 これくらいの距離感が、私にはちょうどいいのだ。

 玄関扉を開けながら振り返る。


「それじゃ、おやすみ。行ってきます」


 帰りの電車で兄へ「無事です」とメールしたら、すぐに「りょうかい」と帰ってきて笑ってしまった。


 あ、会社からもらった贈答品を忘れてきてしまった。

 中身はなんだったんだろう……


 

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