第56話 やめちゃえば?

 二時間後、地念寺くんと私は東京駅近くの小さなカフェで会っていた。

 穴場なのか、平日の昼過ぎだからか、人が少ない。


 地念寺くんは恐縮し切っていたが、私が出社ついでであることを再三強調すると、少しずつ肩の力を抜いてくれた。


 会ってすぐなど、なにをどうしてそんなに緊張することがあるのか、注文したコーヒーをぶっくら返し、店員に平謝りする頭の振りでメガネを吹っ飛ばし、それが空っぽになったコーヒーカップの中にホールインワン。


 店員さんや他のお客さんからは完璧に失笑を買っていたが、私も緊張しすぎた時など大失態を演じたこともあるので同情しかない。「なんてことないよ」って顔で、平静な態度で接した。


 それでもまだ、カップを持つ指が細かく震えている。

「母から、訓練所に入る前にもう、『まとまった休みが取れたら必ず連絡するように』と言われていまして、なんとなく、今がその時かなと思って連絡したんです。そしたら、すぐに帰るように言われまして」


 そこまでは普通のご家庭の事情に思えるが。

 進まない話に私は口を挟んでしまった。


「それで、バスの中であの動画を見て、獅子戸さんからも連絡を受けた、と」


 地念寺くんがコクンと頷く。

 それから彼は、一気呵成いっきかせいに話し出した。

 決して早口で捲し立てるようなものではなく、むしろのんびりとしているのだが、割り込む余地のない口調だった。


「あ、あの、ぼくは、あの、自分の能力がどの程度で、何ができるかとかは、わかっているつもりなんです。でも、本当に、人付き合いが苦手で、どうしても、みんなに嫌われてしまうんです。北海道でもそれですごく迷惑かけてしまって……」


と、彼はブラックコーヒーの中に沈んでいくかのように項垂れた。


「褒めないでくださいって言ったのは、褒められると、期待されてるように感じるからです。できると思われて、次の時に失敗したら何倍も迷惑かけちゃうじゃないですか。単純に、周囲に『こいつできるやつなのかな』って思われるのも重荷ですし」


「へー、そうなんだ。私なんか褒められたら褒められた分だけ有頂天になっていつも以上にがんばれちゃうけど……って、それが逆に邪魔になったりすることもあるけど」

と、茶化してしまってから、私は思い切って言ってみた。


「でもたぶん、そんなにみんな地念ちゃんに期待してないと思うよ」


 彼はひどく驚いて、カップをソーサーにカチャンと置いた。


「私もしてない。期待はね。信頼はしてるけど。〝期待〟と〝信頼〟って違うものでしょ」


 頭のいい彼はそれを、一瞬で、感覚的に、理解したようだ。


「他人に期待するとさ、どんなに意見が一致する人でも、どこかで〝何でわかってくれないんだ〟とか、〝どうしてそんなことするんだ〟とか、不満に繋がるでしょ。裏切られたとか思っちゃったり。他人に期待しちゃだめなの。でも、〝信じる〟ってそれとは違って、相手に判断を委ねながらも、どうなっても大丈夫だって思うことなんじゃないかなって……」


 私はそう続けた。語ってしまうようで照れるけど、でも、言わなければいけない気がして。


「なんてね。ごめんね、若い子に説教するみたいだったね。あははは」


 から笑いでコーヒーをすすると、こっちを眺めるように、遠くでものを思っていた地念寺くんが、私に焦点を戻し、


「僕の家は……」


と、話し始めた。

 私は座り直して聞いた。


「両親が、『国のために戦ってこい』って言ってくるような人たちなんです。だから、心配するどころか、いまごろ国旗掲揚して、親戚集めて待ってるんじゃないかと、容易に想像つくんですよね」


 なんと。

 そのパターンのご家庭もあるのか。


「僕ももういい年なんで、わかってるんです。必要以上に卑屈に構えているのは自己防衛で、こうなったのも、何かにつけて周囲を高圧的な態度で馬鹿にする父との関係のせいだって」


 ここで「父のせい」ではなく「父との関係のせい」と言った地念寺くんを、私は〝いいやつだな〟と思った。


「でもなかなか、ずっと使ってしまっている身の振り方って、歩き方の癖みたいに、簡単に矯正できるものじゃないですよね」

「そうだね。私もそう思う」


「……胃に穴が空きそう」

と、地念寺くんは振り絞るようにその言葉を口にした。


「帰るって言っちゃったんで、帰らないわけにはいかないんです。でも……帰りたくない……」

「いっそ帰るのやめちゃえば?」

と、私はさらりと言ってみた。


「え、そうですかね?」

「うん。緊急な指示が出たから、東京駅で引き返すことになったって。極秘指令とか、なんだって言い訳できると思うよ」


 ぬるくなった残りのコーヒーを飲み干している間に、地念寺くんの心は固まったようだ。


「僕、戻ります。千葉へ」

「うん」


 そして荷物を抱えて立ち上がり、私を振り返った。


「……もうそろそろ、自分の力で人生の舵を取らなきゃいけませんね。わかってるんです。これは半端な反抗期のくすぶりだって。僕、親とはしばらく、距離を置いてみます」


「私はいったん職場に戻るんで、三、四日後に向こうで会おう。練くんによろしく伝えといて。彼、今は実家に戻ってるけど、きみのことも心配してたから」

「わかりました。ありがとうございあふ」


 最後は彼らしく盛大に噛んで、私たちは店の前で別れた。


 

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