第30話 噂の断崖絶壁
戦闘時に音量を下げたままだったので、その不穏な音声を聞いたのは、タブレットを操作している青木さんと私だけだったようだ。
誰も気がついていない。
でも聞いたはずの青木さんも、特に気にしていない様子。
いや、気にしないふりをしているだけ、だろうか。
青木さんの表情はいつもあまり変わらない。口角が綺麗に持ち上げられていて、でもなんとなく目の焦点が合わない。
一見人当たりよく微笑んでいるようだが、それでいて「この顔をしていれば問題ない」とばかりに笑顔を貼り付けているような感じ。
私ってば、人の顔色ばっかり見て、ヨイショと太鼓持ちで人生を送ってきたからか、そういうのわかっちゃうのよね。
ぶすっとしてても根は素直でいい子、とか。
おどおど卑屈に見せて実は自信家、とか。
冷静に徹しているようで、意地を張って頑張ってるだけ、とか。
それに耳ざとい。地獄耳と言ってもいい。
だからさっきタブレットが読み上げたのは、絶対に、
〈そう思う。予想外〉
〈まともだったね〉
だ。
この配信を見ているのは、技術者を中心とした身内と開発チームだと青木さんが言っていた。
その人たちが、私たち「氷結三班」をまともじゃないと予想していたってこと?
なんで?
狭いトンネルの一本道を、練くんと地念寺くんの背中を見ながら進んでいく。
戦闘もなければ休憩もなく、一度往復したことのある道なのに、私の心はなんだかざわめいてしまう。
断崖までたどり着いた。
「あまりにも静かでしたね……」
と、獅子戸さんがつぶやいた。
彼女も何か不穏なものを抱えているのだろうか。
その横をすり抜けて、青木さんが崖っぷちに近づいた。
「うわ! すごい崖……」
「気をつけて!」
彼の不用意さに、富久澄さんが駆け寄る。
練くんと地念寺くんは後退するように道を譲って、私と並ぶくらいの位置になった。
「青木さん、前回は向こう岸に武器を持ったゴブリンがいたんです。気をつけてください」
獅子戸さんの注意に答えることなく、青木さんはカメラを奈落に差し込んでいる。
「どうですか? みなさん、見えますか? これが『D断崖』です。鎖は打ち込んでありますが、あちら側に渡るのは怖いですよね」
〈やば!〉
〈高い! 怖い!〉
〈むしろウケる〉
〈向こう側からの映像もお願いします〉
〈メンテが必要か、ついでに道と鎖の状況の確認もおねしゃす〉
「え、行くの?」
高みから見物する人たちの容赦ないコメントに、練くんは顔を引きつらせた。
「引き返しましょう」
と、獅子戸さんもみんなを気遣って撤収を呼びかけてくれた。
「指示通り、広場の撮影は完了しました」
誰も行きたくなんかないだろう。
そう思ったのに……
「あ、じゃあ僕、ちょっと行ってきますよ。インカムください」
と、青木さんが言いながら、もう富久澄さんからイヤホンを受け取って、造作もなく崖っぷちの細道へ足を出す。
すごい勇気……というか、たまにいる「高所がまったく平気な人」なのだろうか。
彼は左手でカメラ棒を持ち、右手で壁面の鎖を掴んでひょいひょいと狭い足場を進んでいく。
思わず呆然と見送ってしまった我々の間をかき分けて、獅子戸さんが前へ出た。
「みなさんは待機を!」
リーダーとして、青木さんを追わないわけにはいかない。
しかし、その時だ。
「敵襲……!」
声が響いた。
対岸を見張っていた練くんだ。
ゴブリン。
それも、二十体はいる。
地念寺くんが息を呑む。
「ぜ、全員、なにか持ってないですか?」
「青木さん、戻ってください!」
獅子戸さんが叫ぶと同時に、何かが降ってきた。
石つぶてだ。
ゴブリンたちは革紐のようなもので勢いをつけ、数メートルの高低差をものともせず、力強く石を飛ばしてくる。
「散らせ! 『狐火』!」
練くんが咄嗟に呪文を唱えた。
いつも発動するときにそんなセリフ考えてたの?
ひとつひとつに狙いを定めるのは無理と判断した彼は、『狐火』を弾幕のように空中に撃ち出した。
それでもすり抜けて足元に落下するものもある。
つぶての合間に、矢も射られていた。
「前列止めます!」
はっきりと目視できる集団を捕捉しようと、地念寺くんが両手を前に伸ばす。
が、次の瞬間、彼は体ごと右方向へ。
視界の端に何かを捉え、それが看過できないばかりに敵を捨てて向き直ったのだ。
それは、奈落の底へと落ちていく青木さんだった。
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