4.厳格な妃教育

R side


「母様。今、帰りました…!!」

「まぁレティ、お帰りなさい」


 邸宅に戻り、母の部屋へ直行した。慌てた侍女が、僕を呼ぶ。


 部屋に入れば、窓際で刺繍を施していた母が、そっと顔を上げて、出迎えてくれた。差し込んだ夕日に照らされた黒髪が、淡く柔んでいる。


 母は、駆け寄った僕を優しく抱き締めた。ベルガモットがふわっと広がり、爽やかな甘い香りが鼻を掠めた。

 

「殿下にご挨拶できましたか」

「えっと…」

「どうかされましたか」

「とても、優しくて…」


 脳裏を過ぎる甘い記憶に、頬がぽっと熱くなった。


『俺は、レティシアが良いんだ。レティシアじゃなきゃ、ダメなんだ』


 真っ直ぐに伝えられた姿が過りよぎ、咄嗟に、言葉を詰まらせた。母が、口元を緩ませて、どこか満たされた様子で見つめる。


「レティは、恋をしたんですね」

「……はい」


 ふふっ、と微笑むと、母は続けた。僕の手をぎゅっと握って、


「レティ、」

「はい、母様」

「誰かを好きになることは、とても素敵なことです。その気持ちを大切にして下さいね」


 そう告げた母は、美しかった。



◇◇◇



「ほ、本当ですか」

「あぁ。レティが婚約者に決まったよ」

「僕が…殿下と、」


 父に呼ばれ向かうと、侍女が扉を開けてくれた。部屋では、既に兄がソファに腰掛けていて、正式に僕が殿下の婚約者になったことが告げられた。

 厳格な空気が流れる場で、思わず声を上げて喜びそうになった。


「王令ではあるが、御茶会後、第一王子殿下が、直々にレティシアを婚約者に望んで下さったと」

「父上、それは本当ですか」

「あぁ。公には政略結婚となるが、殿下がレティを見初めて下さったんだ。恋愛結婚といえるだろうな」


 父と兄が嬉しそうに話す。婚約を喜んでくれていることが見て取れた。


 殿下が、僕を選んでくれた。


 “ 相応しい婚約者になろう ”


 そう、心に誓った。




◇◇◇◇◇




 一週間後、本格的に妃教育が始まった。休む暇なく、王宮へ出向き、他に誰一人して居ない厳格な環境下で、王家に手配された指導者に教えを乞う。


 学術、体術、魔術、礼儀作法、王家に纏わる歴史、覚えることは後を絶たない。


「間違っています」



「違います」



「作法がなっていません」



「どうして貴方なんかが婚約者に…」



「婚約は辞退すべきでしょうに」


 始めは、次期王妃となる為に、厳しく指導してくれていると思い、感謝していた。


 けれど、日が経つにつれて、ただ厳しかった訳じゃないことに気づく。指導役を担う彼女は、悪意を持って、精神的に追い込んでいた。



◇◇◇



 その日を境に、王宮に行くことが嫌になった。起床して、支度をして、王宮へ向かい、到着すれば、すぐに部屋に案内され、彼女が来る迄一人待つ。

 侍女には、陰口を叩かれ、侍従には、軽視される。

 指導が始まれば、心ない罵倒を浴びせられ、ズタズタに切り刻まれる。


 刻々と、限界は近づいていた。



◇◇◇



「レティシアを迎えに来たんだけど、--------」



 ……殿下だ、!



 罵声に耐え、指導を受けていると、優しい声が耳を掠めた。間違える筈がない。


 すっかり沈み切っていた感情が、急浮上する。いつしか、彼は僕にとって、大きな存在になっていた。


「レティシア様」

「あ…は、はい」


 途端に、冷酷な声が空気を切り、嬉々とした感情は消え失せた。


「このような簡単な問題でさえ解けない方に、殿下と紅茶を嗜む資格などありません」

「え…、」


 気づけば、優しい声色は聞こえなくなっていた。淡い期待は儚く、一瞬にして塵となった。



 愚図で、馬鹿な僕を、……嫌いになりましたか



◇◇◇



「今日は、此処までに致しましょう」

「はい。ありがとう、ございました…」

「妃教育に関することは、すべて他言無用にございます。情報漏洩となります故、公爵家は勿論、使用人にさえ話されません様に」

「…はい」


 抑えつけるような言い方に、言い返す気力を失い、無意識に是と答えていた。




◇◇◇◇◇




「お帰りなさいませ。レティシア様」

「……スレン、」

「どうかなさいましたか」

「う、ううん。ただいま…!」


 出迎えてくれたスレンダに、打ち明けたかった。指導係に嫌われてしまったことを、殿下に会えなかったことを。


 話せば、父がどうにかしてくれるだろう。けれど、状況が悪化すると思えば、言えなかった。これ以上、殿下に嫌われたくない。


「レティ。妃教育はどうですか」

「え、っと…大変ですが、皆さん優しくて」

「何かあれば、すぐに言いなさい」

「はい、父様」


 上品に微笑む母と、嬉しそうに話しかけてくれる父、それを安堵した様子で聞いている兄。


 胸が痛んだ。



◇◇◇



「……ぅ、ぅぅ、」


 食事を終え、自室に戻った途端、必死に抑え込んでいた感情が溢れ出した。流れ方を知れば、涙はなかなか止まらない。


 声を殺して、泣き続けた。



 会いたい

 声が聞きたい

 名前を呼んで欲しい

 笑いかけて欲しい

 ………抱きしめて欲しい





 数日後、事件は起きた。

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