地球儀

カチャン…

 彼を見送ってから私は静かに家に入り、玄関の鍵掛けにそっと鍵を掛けた。

 今日はどうかしてたんだ。私があんなに話すなんて。…でも少し楽しいとも思った。私らしくもない。

 そんな気持ちのまま家を見渡す。家の中は全て眠りについていた。お母さん達も眠っているようで少し安心した。私は時計を見た。時計は十一時を指していた。違和感を覚えるほどの静かさと十一時という何とも言えない時間が、私を落ち着かせる。

 できるだけ音を立てないように、寝る準備を済ます。とても胸が高鳴っているのに、私は妙に冷静だ。意識がはっきりしないまま、ベットに入る。見えているのはいつもと同じ無機質な白い天井。なのにどこか知らないところへ来たような、高揚感と不安の混ざった気持ちになる。私はそんな気持ちのまま眠りについた。


 翌朝、驚くほど清々しい朝が私を待っていた。状況はいつもと同じ。家でも外でも変わらない。変わらないのに、昨日の気持ちが抜け切らず続いていた。今日はなぜか体が軽い気がした。

 階段を降りると、珍しく弟だけがいた。一瞬目があったが、すぐに目をそらす。私は洗面所に行って顔を洗った。鏡を見ながら、やはり少し浮ついているなと思った。キッチンに行くとお米が余っていたのでそれを食べた。私が使ったものは、全て何もなかったかのように片付ける。

 準備が早く終わり、部屋でのんびりしていた。私は感じたことのない不思議な感覚に戸惑いつつも、なぜか違和感は感じなかった。

 どうしても暇だったので、早く家を出ることにした。ジャンバーを着てリュックを背負って玄関で靴を履いた。ふと壁を見ると鍵が目に入った。それは昨日の全てが夢だったのかと思わせるような静かな佇まい。

 私は少しだけ鍵を眺めてからドアを開けた。


ザクザク…

私は昨日の公園に来ていた。ぼーっとしながら公園を見渡していると、すべり台の影に誰かいるのが見えた。私はゆっくり近づき、あと少しで見えるとこまで来たが、急に学校のことを思い出した。ぼーっとしていたこともあり、余計に慌てて学校に向かって走り出した。


 学校では全ていつも通りだった。朝のホームルームもいつも通り。午前の授業もいつも通り。昼休みもいつも通り。午後の授業もいつもと何も変わらない。変わらないのに、私だけ別の世界に入ったまま抜け出せないみたい。

 たった一日のことでこんなに落ち着かなくなるなんて思いもしなかった。今まで散々、驚いたり悲しんだり嫌になったりしたこともあったのに。昨日の、たった数時間の間の出来事が私を私らしくなくする。こんなに動揺していては家でも何かやらかしそうだ。帰り道にあの公園に行こう。彼…竜翔もいないだろうし、星空も見えない。そこはもうただの古ぼけた公園だろう。少しは頭が冷えるはずだ。そう思った。


 帰り道。私は足早に公園に向かっていた。すぐにでも頭を冷やしたかった。

 そこには想像通りの古ぼけた公園があった。色褪せたすべり台と、二つあるブランコ。ところどころ剥げている芝生。どこにでもある普通の公園。思っていた通り、昨日の景色とは全くの別物だ。公園を眺めながら息をこぼした。

「きっと昨日のことは夢だったんだ。…あんなこと…起こるわけない…」そうつぶやく私の耳に入ってきたのは、わぁっ!?という驚きの声とも叫びともとれる声だった。ただでさえ何もなくて静かな公園内にその声はかなり目立った。

 びっくりして、しばらく立ちすくんでいた私ははっと我に返って音に向き合った。昨日のことも全部夢なんかじゃない、ちゃんと私が行動して、感じたことなんだ、そう言い聞かせながら。

 サクサクという足音と一緒に音に近づいていく。〝それ〟は慌てて何かをごそごそ動かし出した。

 コトン…と私の足元に何かが転がってきた。小さな…地球儀?泥がついて少し傷もついているそれは不格好ながらに力強く地球を形どっていた。それをぐるぐる回しながら見ていると、物陰からあの…と怯えているような声がした。私がまたも驚いて身構えたとき、ブランコの影からその人が出てきた。

 「あ…ご、ごめんなさい、手、汚れちゃいましたよね、ごめんなさい、それ、返してください…ああ、えっと、違くて、その、あの、ああ…」

 落ち着きのない人だな。その人があまりにも落ち着きがなくて、私が妙に落ち着いてしまう。その人は多分男の人で、全身が泥だらけで汚れている。白衣のようなものを着ていて、伸びた髪の毛が顔にかかっている。背は思ったより高いけれど歳はあまり離れていないように見える。…正直怪しい人に見えてしまう。

「あの、すみません。こっちこそ勝手に触ってしまって。」

 そう言って小さな地球儀を返すと、彼はほっとしたように地球儀をきゅっと握った。意外と…大丈夫…?私がじっと見ているのに気づいたのか、彼は慌ててぺこっと頭を下げて走っていった。

 いったい何だったんだ…。ぽかんと佇む私をよそに、辺りは薄暗くなってきている。私もそろそろ帰ったほうがいいだろう。帰りたくないなと思いつつも、家に向かった。


 玄関には珍しくお父さんの靴とお母さんの靴があった。こんな時間にどうして…と疑問に思った私はリビングに繋がるドアの前で少しだけ話を聞くことにした。

「本当にどうしちゃったのかしら。」

「理玖も疲れたんだろう。」

「だからって理玖が習い事で失敗するなんて…きっと何か悪いことがあったのよ。」

「考えすぎだよ、理玖だって大丈夫だと言ってただろう。それに理玖に何かあれば僕の病院で診れるんだし。」

相変わらず理玖への期待がすごいな。理玖が人間ってことを忘れてるのかな。完璧な人間なんていないのに。習い事で一度失敗したくらいでこんなに話し込んじゃって。

 私はその話を聞いた後、すぐに部屋に行った。あんな話聞きたいわけがない。最初に聞いたのは私だけど。まあ私はいないような存在だし、別に関係ないけど。私の付け入る隙がないのは中一のときに理解したから…。

「…………」


『お母さん、見て!みんなが難しいって言ってた国語のテストで百点とれたんだよ!私、頑張ったんだよ!』

『……国語しか百点とれてないのに話しかけないで。少しは理玖を見習いなさい。』

『あ……。』


『……お母さん、学校のマラソン大会で二位だったんだ。みんな早かったけど……』

『たかが二位で報告してこないで。ただでさえあなたみたいな子恥ずかしいのに。』

 『…………ごめんなさい…。』


『お母さん、今回のテスト学年一位だったんだ!やっと一位とれたよ!』

『たった一回一位だったくらいで何調子のってるの?理玖は毎回一位なのよ?』

『………………。』


 ………私なりに頑張ったんだけどなぁ………。


 ふいに目頭が熱くなってしまった。私は鍵を持って、上着を着て、そっと家を出た。

 外の空気は少しひんやりしていて、辺り一面暗い。空には私の気持ちを写したかのようにどんよりした雲がたくさんある。そして私の足は、気付けばあの公園へと向かっていた。


 「…………やっぱり星、見えないなぁ…。あ、もしかしてここをこうすれば……お?上手く……いってないな…。なんでだぁ?」

 あ…あの人…さっきの変な人だ…。何してるんだろう。……望遠鏡?でも変な形…。星を…見ようとしてるの?この天気で…?

「…んん〜?ここを…こうっ!」

ガシャンッ!!!

「あ、しまった…またやらかしたぁ〜」

コロコロコロ…

「わぁっ!?部品がっ…!!」

「…………地球儀……」

足元に転がってきた小さな地球儀を手に取った。それはすぐにでも壊れてしまいそうなほど汚れてぼろぼろになっていたけれど、どこか惹かれる。

 彼が辺りに散らばった謎の部品たちを慌てて集めている。

「…あの、これ転がってましたよ。」

「あ、あああありがとう!!!!…………ん?君もしかして夕方も拾ってくれた人…?」

「……」

「…?あの〜?」

彼が私の顔を覗き込んできて、はっと気づいた。

「は、はいっ」

「…それ、気になるの?」

彼は私の手のひらに収まっている小さな地球儀を指さしながら言った。

「…いえ……ただ、少し不思議な感じがして。」

「……そっかぁ……それね、僕たち人類が、まだ存在してないときの地球なんだ。面白いよね、一つの大きな大陸だったなんて。」

「…そう、ですね…」

私はうつむいて声を出した。

その後は、彼は部品の回収をして、私はただぼーっとしていたから沈黙になった。


しばらくして沈黙を破ったのは、ばらけた部品を片していた彼だった。

「………ねぇ、君の夢は何?」

「え?」ふいに聞かれて言葉が詰まった。

だって……夢なんて………。

「…まだ決まってなくて。」

「…そう。………夢はいいものだよ。見つかると良いね。………って、なんか上から目線になっちゃってるね!?ごごごごめん!!」

彼は勢いよくそう言うと、荷物を持ってまたねと言い、暗闇の中に消えていった。

全く、何だったんだろう。…夢はもう見ない。そう決めたはずなのに…。

「……帰ろ…」


カチャン

やっぱりもう家の中は暗い。私は服の擦れる音も漏らさないように、寝る支度をしてベットに入った。

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