第5話 第5話 坊主という仮面

私が東京の寺の住職を辞めるとき、一人で大徳寺の僧堂の老師の元へ挨拶に伺いました。

その茶室は、かつて私が(半年間)老師の侍従をしていた時、毎日花を生け替えていたところです。

相見(老師とお会いすること)の最後に「いやー、坊主の世界というのは結構俗っぽいところですなぁ。」と私が言うと、老師は「アホ !」と、大きな声で一喝(怒られる)されました。

私は「しまった、坊主の親玉に向かって坊主の悪口なんか言うんじゃなかった」と、心の中で叫びました。

すると、老師は静かに湯飲みを手にされながらこう仰いました。「お前は在家出身やからなにも知らんのや。禅宗坊主ほど、ウジウジ・ネチネチ、俗っぽい人間はおらんのじゃ。」と。 そう仰ると、静かにお茶をすすり、フーッと小さくため息をつかれました。


さすが、(徳川幕府に逆らって島流しに遭った沢庵のいた)大徳寺の老師。仮面をかぶって格好ばかりつけている「そんじょそこらのクソ坊主」(堺・南宗寺の老師が、大徳寺の雲水時代に仰ったお言葉)では言えないようなことを、スッと口にされる。


もちろん、かつてお仕えした私ですから、本音でお話し頂けたのかもしれません。 しかし、そのとき私は、仮面ばかりの坊主の世界で、最後の最後に、大徳寺だの老師といった権威(仮面)をつけずに・ごく自然に、素の心を見せて下さった老師に、スッキリとした秋晴れのような清々しさを感じました。


何万人もの俗っぽい坊主がいるのは仕方がない。しかし、たった一人でも、こんな素の人間・仮面をかぶらなくても生きることができる人間がいるからこそ、坊主の世界は続いてきたのでしょう。

50年前、ドイツ文学者の高橋義孝という方が、ある新聞のコラムにこんなことを書いておられました。「私は机の前の本棚に、ほとんど開くことのない立派な辞書を何冊か置いている。それは、安心感の為である。私はもしかしたら間違った言葉を使用しているのかもしれない。しかし、その辞書の中には正しい言葉が書かれている。それらは権威が決めたのではなく、多くの人々によって厳選されてきた、本当に大切な、真に正しい言葉(使い)がそこにある、という。」


坊主の世界を「政治家の世界」に拡大してみると、どこか私たちの知らないところに、「本物の老師」、或いは「本当に正しいもの」が存在するのだろうか。


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