明菜と吉喜と

 幼馴染の吉喜は母子家庭で育った。母親の吉恵よしえさんは、昔から同性愛に対する偏見や差別心が強く、女性らしさや男性らしさにこだわる人達だった。幼少期の吉喜は、女の子が見るアニメだから、女の子の遊びだからと見るアニメや遊びを制限されたり、その色は女の子の色だからとランドセルの色さえ自由に選べなかったらしい。だけど愛されていなかったわけではなかったと思うと彼が涙ながらに私に語ったのは、私が高校に入学する数年前。吉喜がまだ大学生だった頃。その日、彼は吉恵さんから「二度と家に帰ってくるな」と言われて、私の家に泊まりにきていた。追い出された理由は、彼が同性愛者であることをカミングアウトしたから。自分のアイデンティティを否定されて二度と実家に帰ってくるなとまで言われたのに愛されていなかったわけではないなんて、私にはただ言い聞かせているようにしか聞こえなかった。

 それからしばらくして、彼は吉恵さんの反対を押し切ってオランダに移住してルーカスと結婚した。私は弟達を叔母に預けて彼の結婚式に参加したが、吉恵さんは来なかった。旅費は出すから来てほしいとルーカスが訴えたが、拒否したらしい。しかし、そこから数ヶ月経ったある日、吉恵さんが私の家を訪ねてきた。


「明菜さん、吉喜の結婚式の映像ある?」


「えっ、ありますけど……」


「見せて」


「……見るんですか?」


「……ええ。見たいの。見せて」


「……分かりました」


 あれだけ拒絶していたのに何が彼女の気持ちを変えたのかと不思議に思いながら、録画していた彼の結婚式の映像を彼の母親に渡す。彼女はそれを受け取ると「一緒に見てほしい」とお願いしてきた。理由を聞くと彼女は頭を下げたまま「息子の幸せを祝福出来ないままの自分でいたくないから」と答えた。その震える声から、彼女なりに変わりたいという気持ちが伝わった。彼が同性愛者であることを受け入れられないことには何か重い理由があるということも。

 家で彼の結婚式の映像を見ながら、彼女は私の方を見ないまま「あなたにずっと聞きたいことがあったの」と言った。


「なんですか?」


「……あなた、いつから知ってたの? 吉喜のこと」


「中学生の頃からです。付き合ってしばらくして、彼から打ち明けられました」


「……それを知ってもあなたは、あの子と付き合っていたの?」


「……同じなんですよ。私も。彼と」


「同じって……」


「同性愛者なんです。私も」


 それを言ったら彼女はきっと、私のことも性的な目で見ていたのかとか言うのだろうなと、今までは思っていた。だけどその時の彼女は、自分の中の差別心と付き合おうとしていた。息子の幸せを受け入れるために。だから、私のこともきっと、分かってくれるだろうと信じて打ち明けた。彼女は戸惑いを隠せない様子で絶句していたが、私を否定するようなことは言わなかった。代わりに意を決したように息を吐いて「もう一つ、重い話になるけど、聞いてほしいことがあるの」と言う。なんの話かと問うと、吉喜の父親のことだと答えた。吉喜の父親は、私が物心ついた時にはもう居なかった。吉喜も彼のことはよく知らず、聞ける雰囲気ではなかったらしい。


「……何故私に?」


「……自分の中の、同性愛者に対する差別心と向き合いたいから。でも、吉喜には聞いてほしくないし、気軽に他人に話せることでもないの。お願い明菜さん。協力して」


「……わかりました。聞きましょう」


「……ありがとう」


 私の方を見ないまま、彼女は語り始める。


「結婚して、吉喜が生まれて一年ほどが経って……幸せ絶頂だったある日、突然、夫から離婚してほしいと言われたの。彼は泣きながら語ったわ。自分は本当は、男が好きなんだって。普通になりたくて結婚したけど、最近好きな人が出来て、自分に嘘をつき続けることが苦しくなったって」


「……つまり、世間体のための結婚だったと」


「ええ。そう。けど、私はあなたと違ってそれに同意したわけじゃない。知らなかったのよ。愛されているって、信じて疑わなかった。なのに、子供が出来てから、世間体のために利用してたなんて懺悔されて、ふざけんなって思った。殺してやろうかと思った。けど……出来なかった。好きだから。愛してしまっていたから。それに……愛する人との間に出来た我が子を、人殺しの子にしたくなかった。結局あの人は私が殺すまでもなく、彼と一緒に逝ってしまったのだけど。私と吉喜を置いて」


 だから吉喜には同性愛者にはなってほしくなかったのだと、彼女は泣きながら語った。


「だけど結局、あの子はあの人と同じことをしようとした。私が、追い込んだせいで」


 彼女はそう自分を責め始める。そんな話を聞かされたら同情せざるを得ないし、責められない。だけど、彼女は決して同情を誘って許しを乞うために話しているわけではない。息子の幸せを祝えない自分と向き合おうとしている。だったら力になりたいし、私も彼女をただの差別主義者だと決めつけていたこととしっかり向き合わなければ。


「確かに、あなたは吉喜を追い込んだのは事実ですし、過去に同性愛者に騙されたことは同性愛者を差別する免罪符にはなりません。でも……あなたは自力で、自分の過ちに気づけた。それは凄いことだと私は思います。それから……私は今の話を聞いてようやく、あなたが吉喜を大切に想っている気づけたんですけど、吉喜にはずっと前から伝わってると思います。彼、言ってましたから。『愛されてなかったわけではないと思う』って。だから、吉喜とも話せば分か「私からはもう、あの子に会う気はないわ。あなたも今日聞いたことはあの子には言わないで」


 彼女は私の言葉を遮ってそう言うと、泣きながらこう締め括った。「それを伝えたらきっと、優しいあの子は私を憎めなくなるから。ただの憎しみよりも愛憎の方が辛いことは私が一番良く知っている」と。自分の中の差別心と向き合って彼の幸せを祝いたいと言ったくせに、今更何を言うんだと呆れた。


「父親のことは伝えないにしても、話はした方が良いと思います」


「……合わせる顔なんてないわ」


「今更悪人ぶったって多分、吉喜はあなたを憎めないですよ。むしろ今のままの方が辛いと思います」


「……」


「謝りましょう。ちゃんと。吉喜だって、このまま縁を切りたいとは思ってないはずです。元夫の話を私にしたのはなんでですか? 私に同情してほしかったからですか? 違いますよね? 自分の中の差別心と向き合って、吉喜ともう一度やり直すためですよね?」


「……でも、私は……」


 このままでは埒があかないと思い、私はその場で吉喜に電話をかけた。今吉恵さんと一緒に居ることを伝えると理由を聞くより先に「ビデオ通話にして」と彼は言った。言われた通りビデオ通話に切り替えてスマホをテーブルの上に立てる。


「……母さん、久しぶり」


「……」


「……元気してた?」


「……ええ」


「……そっか」


 沈黙が流れる。席を外そうとするが、吉恵さんに止められ一緒に話を聞くことに。


「……母さんが話さないなら、俺から話して良い?」


「……ええ」


「……俺……今も母さんのこと怒ってる。なんでそこまで言われなきゃならないんよだって。ふざけんなよって思った。けど、それ以上に、悲しかった。母さんは同性愛者が嫌いだけど、なんだかんだで、話せば分かってくれるって思ってた。思いたかった。出て行けとまで言われるなんて、思いもしなかった。……母さん、なんでそんなに同性愛が嫌いなの?」


「……」


「私は今聞いた。けど……ごめん、吉喜には話せない」


答えられない吉恵さんの代わりに私が答える。吉喜は私と自分の母を交互に見て「分かった」とため息を吐いた。


「……明菜が代わりに聞いてくれたなら良い。質問変える。今も同性愛者は嫌い?」


「……今は、受け入れたいと、思ってる」


「……そっか。ありがとう」


「……ルーカスさんは居る?」


「居るよ。まだ部屋で寝てる」


「あ、そうか。悪い。時差のことすっかり忘れてたわ」


 彼が住んでいるのは日本国内ではなく、オランダ。時差は約八時間。その時こっちでは昼だったが、向こうはまだ早朝だった。


「そこまで頭回らなかったわ。朝からすまん」


「良いよ別に。で? 母さん、ルーに何か話したいことでもあるの?」


「……ごめんなさい。私……あなたにも、あなたの夫にも、酷いこと言った」


「……うん。酷いこと言った自覚あるなら良いよ。ルーとも、向こうから謝ってきたら許そうって話してたから。……俺、異性愛者として生きなきゃって、ずっと思ってた。三十になったら、明菜と結婚するつもりでいた」


 彼はそう語った後、一呼吸おいて言った。


「……ねえ母さん、俺の父さんもゲイだったの?」


「……どうして……」


「……昔、ゲイバーで知り合った人から、元カレに似てるって言われたことがあって。確信はなかったけど、そうなのかなって。そうだとしたら、あれだけ同性愛者が嫌いな理由もなんとなく察するし」


「……」


「……ああ、答えなくていいよ。明菜には全部打ち明けたんでしょ? なら、俺が聞く必要はないよね。というか……正直、知りたくない。母さんに俺を押し付けて逃げた男の話なんて、聞きたくない。ごめん、明菜。俺の代わりに嫌な話聞かせて」


「いや、良いよ。これで二人が和解できるなら全然。和解してもらわないと吉恵さんとすれ違うたびに気まずいし。そっちの方がやだよ私」


「ごめん」


「ちげぇだろ。ありがとうだろ」


「……うん。ありがとう。母さんも、俺のこと受け入れようとしてくれて、ありがとう」


 と、なんだか良い空気になり始めたタイミングで吉喜の居る部屋のドアが開いた。カメラに誰かの足が写り「Goedemorgen Mijn liefste」という流暢なオランダ語が聞こえてきた。ルーカスの声だ。『おはよう、愛しい人』という意味だ。オランダ語に詳しいわけではないが、ルーカスの影響で簡単な挨拶くらいは理解できる。

 ルーカスはスマホを覗き込み「明菜だ。おはようー」と、日本語で明るく挨拶をしてくれたが、私の隣に映るのが吉喜の母親だと気づくと、ハッとして吉喜の隣に正座して「おはようございます母上」とカメラの前で土下座した。吉喜は苦笑いしながらルーカスの肩をポンポンと叩き、オランダ語で声をかける。ルーカスはカメラと彼を交互に見る。そして彼をじっと見て、頷いて姿勢を崩した。


「……あなた、日本語喋れるのね」


「ハ、ハイ、喋れます。ヨシに教えてもらいました。まだちょっと……えっと……hard? だけど……」


「難しいってことな」


「イエス。日本語、ムズカシイです。でも、面白い、思います」


 今では流暢な日本を話す彼だが、この頃はまだ勉強中で、英語を交えながら辿々しい日本語で語った。吉喜との関係を否定されて悲しかったこと、日本にはまだ同性愛者に対する偏見や差別心を持つ人が多いとは聞いていたがそこまで言われるのかとショックを受けたこと。


「だけど……ワタシ、ヨシキのこと、好きです。ダイジです。loveです。それは、ウソじゃないです。ホントです。ケッコンは家同士でするもの、わかります。リャクダツアイして、ごめんなさい」


 リャクダツアイ。略奪愛のことだろうか。「どこで覚えたんだそんな日本語」と、吉喜も苦笑いしていた。


「てか、略奪愛って使い方違うから」


「what? じゃあなんて言うの」


「この場合は……なんて言うんだ……? 駆け落ち……で良いのか?」


「カケオチしてごめんなさい」


 と、頭を下げるルーカス。すると、ずっと険しい顔をしていた吉恵さんの表情が緩む。


「……ルーカスさん」


「ハ、ハイ」


「あなたのご家族は、吉喜のことを受け入れてくれてる?」


「……ハイ。ワタシの家族、ヨシキのこと、大好きです。……母上も、ですよね? ヨシキのこと、大好きですよね?」


「……ええ。吉喜は私の大切な一人息子よ。……結婚式、行けなくてごめんなさい。酷いこと言って追い込んで、ごめんなさい。ルーカスさんも……ごめんなさい。吉喜のこと……よろしくお願いします」


「……ハイ。よろしくされました。ワタシ、アンシン? しました。母上、ヨシキのこと大切、わかったから。話せてよかった。明菜、ありがとう」


「えっ、なんで私?」


「デンワしたの、明菜でしょ?」


「ああ、うん。朝早くにごめんね」


「ダイジョウブ。ハヤオキハノトクだよ」


「サーモンじゃなくて三文な」


「そう。サンモン。……で、サンモンってなんだっけ?」


「昔のお金のことだよ。早起きは三文の徳ってのは、早起きするとちょっとだけ得するって意味」


 吉喜がそう解説すると、ルーカスは頷き、笑ってオランダ語で吉喜に何かを言う。それを聞いた吉喜は「うん」と柔らかい笑顔を浮かべた。「母さんとこうやって話せて、受け入れてもらえて、三文どころじゃない得したねってさ」と、吉喜が通訳をする。それを聞いた吉恵さんは「そう」と、憑き物が落ちたような優しい微笑みを浮かべた。

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