第38話:今日はたまたまだから

 彼女に手を引かれるがままに歩く。一体どこへ向かっているのかと問うと彼女は「葉月ちゃんの好きなところ」と振り返って笑う。連れて行かれたのは、深海魚のコーナー。巨大なカニが私たちを出迎える。


「好きでしょ? カニ」


「……先輩は、クラゲが好きでしたよね」


「うん。あの日もらったクラゲのぬいぐるみ、今も私の部屋に置いてあるよ」


「……私も、先輩からもらったタカアシガニ、部屋に飾ってます」


 三百円のガチャガチャを回して出た小さなタカアシガニの置物。値段はたったの三百円。だけど、私にとっては大切な宝物だ。好きな人が初めてくれたプレゼントだから。


「学校の机に飾ってくれて良いのに」


「無くしそうなので嫌です」


「ふぅん? そんなに大事なんだ?」


「……当たり前です。たった三百円の置物ですけど、あれにはお金では買えない思い出が詰まってますから」


「それ見るたびに私のこと思い出してくれてたの?」


 ニヤニヤしながら彼女は言う。そういうあなたはどうなんですかと質問を返すと「あのぬいぐるみ抱くたびに思い出してるよ。君のこと」と照れ笑いしながら返してきた。カウンターを仕掛けたつもりがカウンターのカウンターを食らってしまった。


「あははっ。にしても、いつか君の生徒になる日が来るかもなんて冗談で言ったけど、現実になるなんてね」


「……先輩は、嬉しいんですか。私の生徒になれて」


「そりゃ嬉しいよ。君が立派に教師をやってる姿を間近で見られるんだから。葉月ちゃんは私が生徒で嬉しくないの?」


「嬉しいわけないでしょう。毎日毎日あなたに振り回されて、周りの先生達や生徒達にも揶揄われて……」


「へー。大変だね」


「誰のせいだと思ってるんですか!」


「あははっ。わたしー」


「分かってるならやめてくださいよ……」


「でもさ、やめたらやめたで寂しくならない?」


「ならないです」


「本当? じゃあもう今度から構ってあげないよ?」


 別に良いですと即答出来ずに口篭ってしまう。すると彼女は「んもー! 可愛いんだからぁ! 大好き!」と腕に抱きついてきた。腕が彼女の胸の谷間に吸い込まれる。


「む、むむむ胸! 胸が当たってます!」


「当ててんのよ」


「当てないでください! セクハラです!」


「動揺しすぎだろ。童貞か?」


「もー! 先輩!」


「そんな怒るなよ。おっぱい揉むか?」


「揉みませんよこんなところで!」


「えー。こんなところじゃなかったら揉むんだ? いやん先生のえっち」


「先輩!!!」


「葉月ちゃんなら良いよ。おいで」


「行きません! もう!」


「ごめんごめん」


 楽しそうにケラケラ笑う彼女。彼女は昔からそうだ。いつも私を揶揄って。教師と生徒という関係になっても相変わらずだけど、今日は特に酷い気がする。「君が可愛くてつい」と、彼女は悪びれる様子もなく笑う。恋人に向けるような愛しむような微笑みを向けられてしまったら、なにも文句を言えなくなる。


「……先輩はずるいです」


「大人だからな」


「中学生の頃からずるいです」


「君が揶揄いがいある性格してるのが悪い」


「……酷い人です」


「でも好きでしょう?」と先輩はまた揶揄うように笑う。「嫌いです」と返すと、ショックを受けたような顔をして嘘泣きをし始めた。無視しておいて行こうとすると、慌ててついてくる。


「ところで、改めて確認なんだけどさぁ葉月ちゃん」


「なんですか」


「……今の私達って、どういう関係なのかな。ここは学校じゃないから生徒と教師じゃないよね?」


 先ほどまでのふざけたトーンではなく、真面目なトーンで彼女は言う。ここは学校ではないから、今の私達は教師と生徒ではなく、中学の先輩後輩だと彼女は主張する。それを認めると彼女は、じゃあ今の私達は恋人同士だねと言い張るだろう。それは困る。


「……学校じゃなくても私たちは生徒と教師です」


「えー。でもさっきからずっと先輩呼びだし、デートしちゃってますけど?」


「……デートじゃないです。たまたま会って一方的に絡まれてるだけです」


 恋人繋ぎまでしておきながら、我ながら苦しい言い訳だ。


「えー……今だけは恋人同士ってことにしてよぉ」


「駄目です」


「えーん」


「……今日はたまたまだから仕方ないですけど、卒業までは極力プライベートで会わないようにしましょう」


 私がそういうと、彼女は足を止めた。


「先輩?」


 振り返ると彼女は俯いて「これは独り言なんだけど」と前置きをして話し始める。


「幼馴染の吉喜は今、オランダに住んでて。来週の金曜日に帰っちゃうんだ。だから帰る前に飲みに行こうって話してて。来週の木曜日の夜六時、彼と彼の恋人と三人で、モヒートっていうバーに飲みに行くんだ」


 日時、時間、場所を強調してそう話すと、彼女は何かを訴えるように私を見た。何が言いたいのかと問うと「偶然会っちゃうのはセーフにしてくれるんだよね?」と笑う。つまり、偶然会っただけと言い訳してプライベートで会おうということらしい。


「……今の独り言は聞かなかったことにしておきます」


「うん。でも、私は期待して待ってるから。君と会えることを」


 卒業するまで付き合わないことを貫くなら、絶対に行きませんからとはっきりと言わなければならない。だけど——。


「……担任の先生じゃない、後輩の君に話したいことがあるんだ。教え子じゃない、先輩の私として」


 そう真剣な顔で言われてしまっては、行かないとはっきり断ることなんて出来なかった。

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