第37話:詐欺だ

 夏休みに入って一週間。それまで土日以外はほぼ毎日見ていた彼女の顔をもう一週間も見ていない。静かで、安らかな日々が続いている。それを私は、寂しいと感じている。家で一人で居ると尚更そう感じてしまう。寂しさを紛らわすように、家を出る。日傘を差して向かった先は水族館。彼女が中学に卒業する前に行ったあの水族館。元カノと別れて以来私は、毎年年間パスポートを買って月に数回は通っている。ここに来れば、彼女に会える気がして。会えたことなんて、一度もないけれど。あの日の思い出にずっと囚われている。

 受付でパスポートを見せて中に入ると、小学生くらいの子が目の前を勢いよく横切って行った。母親と思われる女性が、ぶつかりそうになった私に謝りながら子供を追いかけて行く。無邪気に走り回る子供に気をつけながら、イルカの居る巨大な水槽に近づく。夏休みとはいえ、今日は比較的人が少ないため難なく水槽に近づけた。イルカは私に気付くと、挨拶をするように寄ってきてくれた。

『乗ってみたいよなぁ』と、あの日の先輩はイルカを見ながら言っていた。今見ても同じことを言いそうだ。彼女は本当に、あの頃と変わらない。いつも彼女の隣には誰かが居て、笑っている。普段はあまり笑わない人も彼女の前では笑顔になる。居るだけでその場を明るくする太陽のような人。困っている人を助けるヒーローのような人。そんな彼女にずっと——絡まれているところを助けてもらったあの日からずっと、彼女に恋をしている。

 十年経って、館内はところどころ変わっている。新しいコーナーが出来ていたり、逆に無くなっていたり。だけど彼女との思い出は今も色褪せず、ここに来るたびに鮮明に蘇る。

 先輩は今何をしているのだろう。家で宿題を進めているのだろうか。いや、夏休み始まってから一週間も経っているし、もう終わっているかもしれない。あの人はそういうのは早めに終わらせるタイプだから。高校で出来た友達と遊んだりしているのだろうか。毎日ここに通っていたら、偶然会えたりしないだろうか。

 なんて思いながら歩いていると、ふと私を呼ぶ声が聞こえた気がして足を止める。それは明菜先輩ではない、別の先輩の声だった。足音が近づいてきて、もう一度同じ声で呼ばれてからようやく振り返ると、私を呼んだその人は「やっぱり葉月だ。久しぶり」とどこか気まずそうに笑って手を振った。

 彼女は木谷きたに朔夜さくや先輩。私の大学の先輩であり、元カノでもある。私より背が高くて、落ち着いた雰囲気の大人の女性。子供っぽくて無邪気な誰かさんとは真逆だ。


「……お久しぶりです」


「一人?」


「……はい」


「……そっか。私も一人」


「……そうですか。では」


 立ち去ろうとすると、腕を掴まれ引き止められた。


「待って、葉月。せっかくだし、一緒に見て回らない?」


「お断りします。元カノと二人きりで会ってたなんてに知られたら、誤解されてしまいますから。……離してください」


 しかし彼女は手を離そうとしない。離すどころかむしろ腕を掴む手に力が籠るのを感じる。痛い。掴まれた腕だけではなく、心も。


「……彼女居るのに、一人で来てるの?」


「いけませんか?」


「彼女、何してる人? 葉月、誰かに騙されたりしてないよね?」


「人を騙すような人じゃないです。あの人は。……あの人のことは、昔から、よく知ってます。だから……心配しなくても大丈夫です」


 私がそう言うと、私の腕を掴んでいた彼女の手から力が抜けた。


「……その人って「葉月ちゃん!」


 朔夜先輩の言葉に被さるように聞こえてきたのは、もう一人の先輩の声だった。そこにいつものへらへらとした笑顔はなく、緊迫した雰囲気を纏っている。


「明菜先輩……!? なんでここに……」


「たまたまだよ。それより、その人知り合い? なんか揉めてるように見えたけど、大丈夫?」


「ええ、まぁ」と濁すが、朔夜先輩がはっきりと「元カノです」と答えた。


「あなたは? 葉月の今カノさん?」


 朔夜先輩の問いに、明菜先輩は一瞬固まってものの、私を見て何かを察したように「そうです」と声高に肯定した。そして、朔夜先輩に彼女が居ると言ってしまった手前、否定出来ない私を見て、ニコッと笑う。だよね葉月ちゃんと言わんばかりに。答えずに沈黙が流れると「本当に彼女?」と朔夜先輩は疑うように私と彼女を交互に見る。すると明菜先輩は私の腰を抱き寄せ「この通り、ラブラブです」と至って真面目な顔で言う。顔は真面目だが、これは多分、いつものように私を揶揄っている。朔夜先輩はため息を吐き「わかったよ。デートの邪魔してごめん」と呆れたように言った。そして私に「彼女に捨てられたら私のところ戻ってきて良いからね。また前みたいに慰めてあげる」と、明菜先輩にも聞こえるように嫌味っぽく言って、明菜先輩を一睨みして去っていった。


「……軽蔑しますか」


「えっ、何が?」


「だから……その……今彼女が言ったこと、聞こえていたでしょう。私は……彼女を、あなたの代わりに……」


「しようとしたけど、出来なかったんでしょ?」


 確信するような言い方だった。思わず彼女の顔を見る。彼女はいつも通り優しく微笑む。朔夜先輩の言葉には一切動揺していないように見えた。


「……でも、代わりにしようとしたのは、事実です」


 私がそう言うと彼女は間を空けて「そうか」と静かに相槌を打った。そして珍しく真面目な顔でこう続ける。


「私だって、散々遊んでたよ。本気の恋なんて数えるくらいしかしてない。……君はそんな私を軽蔑する?」


 それはなんとなく分かっていた。だけど、改めて口にされると胸が痛んだ。だけど先輩も別にわざわざ言いたくて言ったわけでは無いのだろう。


「……軽蔑なんて、しません」


「本当か? ショック受けたような顔してるけど」


「……察してはいましたけど、わざわざ聞きたくは、なかったです」


「それはお互い様だよ。私も聞きたくなかった。けど、そんなことで嫌いになんてならないよ。私の愛はそんな軽くない。君が好きだった。一度は諦めた。けど、今度は諦める気はないよ」


 先輩はそう言って笑う。いつもの私を揶揄う時と同じ顔。憎たらしくて、だけど愛おしくもあるずるい笑顔。心臓が高鳴る。何も言えなくなり顔を逸らすと「照れてる?」と揶揄うように覗き込んできた。


「て、照れてません。ていうか、今更ですけど、なんでこんなタイミングよく現れたんですか。つけてたんですか私のこと。ストーカーですか。通報しますよ」


「つけてないつけてない。本当にたまたま。助けたのに通報しないでよ。今、幼馴染が帰省中でさぁ、それで久しぶりに遊びに行こうってなって」


「……その幼馴染はどちらに? それらしき人は見当たりませんが」


「解散した。というわけで、行こうか。葉月ちゃん」


「いや、行きませんけど」


「えっ!? なんでよ!」


「なんでよはこっちの台詞です。久しぶりに会った幼馴染と一緒に来てるんでしょう?」


「そうだけど、彼女優先に決まってんじゃん」


「か、彼女じゃないです!」


「えっ。元カノに聞かれた時は否定しなかったのに」


「あ、あれは……だからその……そ、そういうことにした方が、向こうも諦めがつくじゃないですか……先輩もそういう意味で合わせてくれたんですよね?」


「いや、私は本気で付き合ってると思ってるが」


「付き合ってませんが」


「えー。でも葉月ちゃん約束したよね?付き合ってあげるって。じゃん?」


「……ちょっと待ってください。私はと言ったはずです。なんですかその屁理屈」


「確かに言いました。けど先生と生徒じゃなくなったらですよ」


 してやったり顔で言われて、ようやくハメられたことに気づく。


「う……さ、詐欺です! 無効です!」


「でも、私ちゃんと、確認したよね? 本当にその条件で良いの? って。同意したのはそっちだよ」


「うう……だ、だとしても! プライベートだから生徒と先生じゃないという主張もめちゃくちゃだと思います! プライベートだろうが私たちは——」


 言い終わる前に彼女は私の手を取った。そして指を絡めて握り込み、切なそうな顔で私を見あげ「どうしても駄目?」と小首をかしげる。私はその誘惑にどうしても抗えず、彼女の手を握り返してしまった。

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