第36話:彼女は誰?
夏休みに入って一週間。宿題はもうほとんど終わった。暇だ。
「暇だからちょっと散歩してくるわ」
と、弟達に告げて家を出る。行き先は決まっていない。どこへ行こうかと考えて最初に出てきたのは水族館。彼女と初めてデートをしたあの場所だ。あの時はあれが最初で最後のデートになるだろうと思っていた。彼女と付き合いたいと望めるほど、あの頃の私は自分がレズビアンであることに誇りも自信も持てなかった。仮に付き合えていたとしても長続きしなかったかもしれない。なんて思いながら、日傘を差して歩いていると、正面から走ってきた青い軽自動車が私の前で止まった。吉喜の実家の車だ。運転席の窓が開き「よっ」と吉喜が手を挙げる。
「どっか行くの?」
「んー。水族館かなぁ」
「俺も行こうかな。暇だし。ちょっと待っててよ。買い出ししたもの置いてくる」
「ええ? 来るの?」
「なんだよ。誰かと約束してんの?」
「いや、してないけど……もしかしたら会えるかもって思って」
「森中さんに?」
「そう。あの子水族館好きだからさぁ。偶然会えたりしないかなぁって思って。出会ったら解散な。二人きりが良い」
「そんな偶然なかなかないと思うけどな」
「先行くわ」
「えー待ってよー。てか、まさかとは思うけど徒歩で行く気?」
「そのまさかだ」
「死ぬ気かよ。車出してやるから待ってろ」
「いや、歩きたい気分なんだが」
「マジかよ。よくこんなクソ暑い中そんな気分になれるな……」
結局、熱中症になるぞと説得され車で向かうことに。助手席にはルーカスが座っていた。買い出しの時はいなかったが、遊びに行くと聞いてついてきたらしい。
「夫を元カノと二人きりになんてさせられないからね」
と彼は言うが、本気ではなく冗談だと分かるような明るいトーンだった。吉喜と私が付き合っていた過去はルーカスも知っている。それが恋愛感情によるものではなく、利害の一致による関係だったことも。心配するようなことは何もないことはわかっているはずだ。
「俺は男しか好きにならんよ。ルーと違って」
吉喜はそう、どこか嫌味っぽく言う。ルーカスはゲイだと私は聞いていたが。バイだと言ったら嫌われると思って嘘をついたのだとルーカスは気まずそうに白状した。吉喜もそれを知ったのはつい最近のことらしい。
「まぁ確かに、バイをよく思わない同性愛者は居るもんなぁ」
「そう。その経験があったから、嘘ついちゃった。ごめんね」
「良いよ別に。否定されることが怖くて言えない気持ちは私も分かるから」
「でも、俺には話してほしかったなぁ」
「ごめんってば」
「それを言わないで元カノと会ってたんだよ? 酷くない?」
「まぁまぁ。浮気じゃなかったんだろ?」
「違うけどさぁ……」
「浮気なんてしないよ。一生愛するって、神様に誓ったからね」
そうカッコつけるように言うルーカス。よくもまぁ、後ろに私が居るのに堂々といちゃつけるものだ。文化の違いもあるかもしれないが。
「ついたよ」
車から降りて、三人分のチケットを買って中へ。ここは葉月ちゃんとの思い出の場所だが、吉喜とも何度かデートできたことがある。といってもそう色気のある思い出はない。一緒に来た回数は吉喜との方が多いが、記憶に残っている思い出の数はたった一度の彼女とのデートの方が多い。吉喜のことも、特別ではないわけではない。だけどその特別な感情は恋とは呼べない。恋と呼ぶにはあまりにも近すぎるし、軽すぎる。愛と呼べるほどの重さはあるかもしれないが。
「居ないなぁ葉月ちゃん」
「魚見ろよ」
「ワタシ、チンアナゴ見たい」
「チンアナゴどこだっけ」
「えっとねぇ……」
マップを見ながら二人の後ろを歩いていると、ふと『葉月』と、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。同名の別人だろうと思いつつも、振り返る。一人の女性が駆け寄った先にいたのは、紛れもなく彼女だった。
「おーい。明菜?」
「吉喜」
「なんだよ急に立ち止まって。もしかしてマジで見つけたのか?」
「見つけたけど……」
見知らぬ女性と話している。誰だろう。とりあえず、学校の先生ではなさそうだ。私の知らない交友関係があるのは当たり前なのだが、なんだか心がざわつく。
「あれか。一緒に居るのは知らん女か?」
「知らん女だな」
「姉とか妹とかいうオチ……ではなさそうだな。あの雰囲気は」
「ワタシには分かるよ。あれは元カノだね」
彼女は女性に頭を下げて、すぐに立ち去ろうとした。しかし、女性は彼女の腕を掴んで引き止める。これは多分、介入した方が良いやつだ。
「吉喜」
「ああ。解散だな。分かった」
「おう。またな」
「ああ。帰りは送ってやるよ。連絡くれ」
「分かった」
「じゃ」
「またねー。明菜」
私は吉喜達と別れて二人の元へ駆け寄った。
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