第19話:卒業するまで

「森中先生、和泉明菜さん遅刻するそうです」


「和泉さんがですか?」


 ゴールデンウィーク半ばの平日初日。先輩が遅刻すると連絡が入った。理由は、電車で痴漢を捕まえたから。電話を取った先生曰く、彼女が被害に遭ったわけではないようだ。被害者が居るからホッとすることではないのだけど、ホッとしてしまう。だけどやはり心配だ。怪我などしてなければ良いのだが。

 朝礼を終えて教室に行くと、クラスはざわついていた。席に着かせるが、一つだけ席が空いたまま。彼女の席だ。


「先生、和泉さんは遅刻するそうです」


「はい。聞きました」


「痴漢捕まえたらしいよ」


「マジで? ヒーローじゃん」


「さすが明菜ちゃん」


「あれ? 明菜ちゃんって自転車通学じゃなかった?」


「あー。今日はたまたまうちらと一緒に電車乗ってたのよ。電車通学憧れてたんだーとか言って」


「それでたまたま痴漢捕まえるとか、どんな奇跡だよ」


「はい。みなさん静かに。ホームルーム始めますよ」


 学級委員に号令をかけさせ、ホームルームを始める。終わっても彼女は来ず、そのまま一限目に入る。一限目は私の授業だった。


「実はサボってんじゃない?」


 誰かが言う。「葉月ちゃんの授業だし、それはないでしょ」と誰かが揶揄うように続ける。


「私の授業でなくとも、サボるような人ではないですよ彼女は」


「さすが葉月ちゃん。明菜ちゃんのことよく分かってんね」


「森中先生です。揶揄わないでください」


「はーい」


「良いですかみなさん、ゴールデンウィーク明けたらすぐテスト週間ですからね。授業に集中してくださいね」


 と、声をかけて振り返ると、明らかに不自然な教科書の立て方をしている生徒がちらほら。恐らく、ゴールデンウィークの課題をやっているのだろう。注意しなければいけないところではあるが、一応世間ではゴールデンウィークの最中だ。今回は多めに見てやろう。連休明けで生徒達もあまり授業に集中出来ていなさそうだし、このクラスはまだテストまで余裕がある。いっそ今日は課題をやる時間にしても良かったかもしれないと反省する。しかし授業を始めてしまったからには、キリのいいところまでは進めておこう。


「……キリがいいので、今日はここまでにします。残り二十分ほどありますので、ゴールデンウィークの課題がまだ終わっていない方はこの時間で進めても構いませんし、終わってる方はテスト勉強でもしてください」


「えっ! やった! 葉月ちゃん神!」


「寝るのはありですか」


「……まぁ、そうですね。多少の仮眠は勉強効率を上げますからね。許可します」


「えっ。マジ? 絶対勉強しろって言われると思った」


「先生、なんか変なもん食った?」


「良いから各自自習なさい」


「なんの教科やってもいいですか?」


「構いませんよ。ただ、私はあくまでも国語の教師ですから、担当外の教科に関する質問は受け付けません。国語以外の教科について分からないことがあったら周りで教え合って自力で解決するか、後で担当の先生に聞きに行ってください」


「はい。先生は明菜ちゃんが卒業するまで本当に彼女と付き合わないつもりですか」


「勉強に関係ない質問も受け付けません」


 と、生徒達をあしらいながら自習を見守ること二十分。ついに彼女は戻らないままチャイムが鳴ってしまった。寝ている生徒を起こしてから号令をかけさせ、授業を終了する。


「結局明菜ちゃん来なかったね」


「ね。大丈夫かな。心配だね。先生」


「……そうですね」


「あーあ、もう『揶揄わないでください』とも言わない。重症だ」


「……私は次の授業がありますので、これで失礼します」


 そう言って教室を出ようと扉を開けようとした瞬間、扉に手をかけるより先に扉が一人でに開く。開けたのは彼女だった。


「和泉さん……」


「おはようございます。森中先生」


「……おはようございます」


 挨拶だけして、教室を出る生徒達の邪魔にならないように一旦廊下に出る。


「遅刻の理由は聞いてます。今回は理由が理由ですので、欠勤にはなりません」


「あ、そうなの? じゃあもうちょっと遅れて来ても良かったな……」


 彼女はそう冗談っぽく言う。いつも通りだ。私がどれだけ心配してたかも知らないで。


「……和泉さん」


「は、はい。すみません。冗談です」


「……いえ。……和泉さんは、被害には遭いませんでしたか? 大丈夫ですか? 怪我はしてませんか?」


 直接の被害者ではないことも、別に怪我もないとも聞いた。それでもやっぱり、本人に確認せずにはいられなかった。


「はい。大丈夫です。どこも触られてませんし、怪我もありません。心配しなくても、先生以外には触らせませんよ。私の身体は先生のものですからね」


「……そうですか。良かったです」


 なんか変なことを言われた気はしたが、それにツッコミを入れる気力はなかった。それよりも今は、彼女が無事で安心した。


「……特別扱い出来ないとか言うくせにそんな顔するのずるくない? もう開き直って付き合うべきでは?」


「ですから。それは出来ません」


「ちっ。堅物教師め」


 だけど、彼女の言うことも分かる。私は彼女に対する想いを全く隠せていない。生徒達からはもちろん、一部の先生達にまで揶揄われる始末だ。彼女と付き合わない選択に、意味があるのだろうか。


「……——まで、待ってください」


「え? なんて?」


「……卒業するまで、待ってください」


 私は彼女が好きだ。十年前からずっと。だけど私は教師だ。彼女だけを特別扱いしてはいけない。いや、もうしてしまっているかもしれないけれど。彼女と付き合わない選択に意味なんてないかもしれない。それでも私は教師だから。彼女の想いに対する答えは、今はこれが精一杯だ。

 彼女は呆れるようにため息を吐いたが、ふっと嬉しそうに笑った。


「……分かりました。教師と生徒じゃなくなれば、良いんですね?」


「……はい」


「教師と生徒じゃなくなれば、付き合ってくれるんですね?」


 念押しするように彼女は二度同じ問いを投げかける。私はこの時、彼女のこの問いの真の意味を理解せずに肯定してしまった。


「二回も聞かないでください」


「言質とりましたからね」


「しつこいですよもう。次の授業があるので、失礼します」


 そう言って立ち去ろうとすると、彼女は笑って言った。「はい。心配してくれてありがとね葉月ちゃん。大好きだよ」と。思わず振り返ってツッコんでしまう。


「言った側から!」


「今の好きは、先生としてという意味です。口説いてないからセーフ」


「葉月ちゃんって呼ぶのはアウトです!」


「ははは。すみませーん。愛してますよ森中先生」


「愛してるもアウトです!」


「はーい。わかりました。先生が教師じゃなくなるまでもう言いません」


「……約束ですよ」


「約束します。先生も、私のこと特別扱いしちゃ駄目ですよ」


「……私は教師として、生徒を心配したまでです。人助けは褒められるべきことです。ですが……危ないことは、しないでほしいです」


「私が大事だからですか?」


「そうです。大事な生徒だからです」


「愛しい恋人だからですか?」


「大事な生徒だからです! あなたは先生を揶揄う悪い子ですが、それでも、私の生徒に変わりはありません」


「悪い子って。私、歳上なんですけど」


「悪い子です」


「悪い子なのでお仕置きしてください」


「体罰になるのでしません」


「大変ですねぇ先生も」


「そう思うなら揶揄うのやめてもらえませんか。あなたに揶揄われるのが一番大変なんですが」


「悪い子なのでやめませーん」


「な……あなた! それでも大人ですか! 屁理屈ばかり言って先生のこと揶揄って!」


「大人だからですよ。大人はずるいんです。約束、絶対に忘れないでくださいね。先生」


 彼女はそう揶揄うように言う。本当にあの頃と変わらない。ああ言えばこう言う。憎たらしい。なのに私はこの人を嫌いになれない。この憎たらしい顔が愛おしいと思ってしまう。悔しい。


「それはこっちの台詞です。葉月ちゃんって呼ぶのも、愛してるって言うのも禁止ですからね」


「揶揄うのは許してくれるんですね?」


「……ほどほどにしてください」


「大好きです! 森中先生!」


「い、いきなり叫ばないでください! 大好きも禁止!!」


「教師として尊敬してます!」


「してないくせに適当なこと言わないでください!」


「してますよ。教師という立場をわきまえて葛藤するクソ真面目なところ、大好きです」


 そう笑うと、彼女は私と距離を詰めた。そして少し背伸びをして私の耳元で囁く。


「これからも私と仕事を天秤にかけてたくさん葛藤してくださいね。せーんせ」


 彼女は私の生徒だ。だけど彼女は大人で、私より一つ上の先輩だ。彼女が醸し出す色気に、そのことを分からせられる。言葉を失ってしまう私に、先輩は子悪魔のような笑みを浮かべて「じゃ、次の授業頑張ってくださーい」と子供っぽく言って教室に戻っていった。


「……先輩の意地悪」


 今の私は教師で、彼女は生徒。立場は逆転したのに、彼女は変わらない。あの頃の意地悪な先輩のまま。私の好きな先輩のまま。

彼女が入学してまだ一ヶ月。彼女が私の生徒でなくなるまではまだ二年以上ある。果たして私はそれまで耐えられるのだろうか。

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