第2話 暗殺者、手を差し伸べる。
一歳になり、座っていても怪しまれなくなったので最近は一日中、ベッドの中に座って周りを眺めている。
せっせと働くメイドたちや彼女たちが動かす魔道具を観察しておく。どんな魔道具が存在してどのような効果があるのか、動かすにはどうするのか、いろいろ考察をしながら眺めている。
そんな日々を送る中で、一つ大きな困りごとができた。
それは俺の前に立つ――――小さな女の子だ。いや、まだ赤ちゃんだ。
「あう~」
俺のベッドは落ちないようにと柵が作られていて、赤ちゃんの体では超えることができないようになっている。天井はないので開放感はあるが、檻にいる感覚だ。
前世のことを思えばそうされても当然だと思うが、赤ちゃんを守るために閉じ込めているのだから仕方がないことだろう。
そんなベッドの外には俺より一年前に生まれた――――姉が訪れてきては、俺に触れようと一所懸命に柵の隙間から手を伸ばしてくる。が、届くはずもない。
二歳となった姉は、好奇心旺盛でどこにでも歩き回って、世話をしているメイドは可愛らしい彼女の姿にいつも微笑んでいる。
「あう~」
今日も相も変わらず俺に触れようとやってきては手を伸ばす。しばらく「あう~」とわけのわからないことを言いながら手を伸ばして、触れることができないまま帰っていく。
赤ちゃんというのは不思議な生き物なんだなと思いながら、今日もベッドの中で一日を過ごした。
それから来る日も来る日も姉は俺を訪ねて来る。そんなある日。
「あう……う……」
姉はその目に大きな涙を浮かべて俺に向かって手を伸ばす。いつもなら諦めて帰っていったはずなのに、何故か今日は諦めることもなく、数十分も手を伸ばしていた。それでも当然のように触れられない。
触れないことが悔しいのか、その場で泣きながら手を伸ばし始めた。
「うわあああああん!」
「あらあら、ソフィア様? 届かないからって泣いちゃいけませんよ~?」
「あうあう! あう!」
「うふふ。弟さんが可愛いのは私も知っています。でも柵は超えられませんよ?」
このメイド…………赤ちゃんが何を話しているのか理解しているのか。さすがは異世界だ。今までいろんな人を見てきた。裏の世界には奇怪な人も多かったが、赤ちゃんの言葉がわかる人に会ったことはない。
やはり異世界というのは俺の見識では測れないものがあるんだな。
「あう……う…………」
それにしても今日はやけに頑固だな。未だ可愛らしい大きな目から大粒の涙を流しながら、悔しそうに俺を見つめ続けている。
いつぶりだろうか。誰かが俺に手を差し伸べてくれたのは。
…………若い頃、一人だけ俺に手を差し伸べた女性がいた。二人でどこまでも逃げようと言ってくれた同業者だ。
だが俺は彼女の手を取らなかった。いや、取る理由がなかった。彼女の名を聞かなくなった数年後、彼女が組織によって消されたのを知った。
あのときですら怒りもなければ、彼女を憐れむこともなかった。
ただ…………彼女が伸ばした手を取っていれば、あのときの俺は変わっていたのかと疑問に思うことはあった。それからだったかな。報酬を生きる分以外を寄付し始めたのは…………ああ、今思えば、彼女がそうしていたから俺もそうするようになったんだな。
彼女と姉は違う。だが、今日ここで彼女の手を取らなければ、また彼女が組織に消されてしまうんじゃないかと頭を過る。
異世界に組織なんてあるかわからないし、彼女と俺はまだ赤ちゃんで家族だ。だが、どうしても前世のことが離れない。
久々に――――俺は立ち上がった。
しっかり自分の両足で地面を踏みしめて、少しずつ高くなる視界が胸をくすぶってくる。姉はそんな俺を驚いた表情で見つめて、もっと手を伸ばしながら大声を上げる。
そう急くな。俺だって久しぶりに立つのだから。
「アダム様! あらまあ!」
両足に力が入りきらない。赤ちゃんの体では碌に立つことも困難だ。最近まで座ることすら難しかったからな。
右足を出そうと思っても中々思い通りには動かないが、自由の利かなくなった体を動かすことにも慣れている。力が入らないときは入らないなりの歩き方というのがある。
俺はゆっくりこちらに向かって必死に右手を伸ばしている姉に近付いていく。
一歩、また一歩。近付く度に彼女の手が近くなる。
そして――――右手を差し伸べた。
初めて触れた姉の手は――――鬱陶しいくらいに温かかった。
◆
四年後。
「アダム! 行くわよ!」
そう言いながら満面の笑みを浮かべて右手を差し伸べる綺麗な少女。名をソフィア・ガブリエンデといい、俺の姉だ。母に似ていてとても綺麗な顔立ちをしている。まだ六歳だというのに、その美貌は大人顔負けだ。
日の光を受けるとキラキラと輝く美しい水色の髪は、腰まで伸びており少しウェーブがかかっていて風が吹くと少し揺れるだけで穏やかな湖が優しく揺れるかのようだ。
見た目では綺麗な少女だが――――何故か行動は少年そのものである。
俺の左手を勝手に引くと、ぐいぐいと引っ張って屋敷を冒険に出かける。最近の毎日の日課である。
「姉上。また探検ですか」
「そうよ! まだまだこの屋敷には私たちでも知らない秘密があるかもしれないわ!」
「…………また母上に怒られますよ?」
「うっ! そ、それは……い、いいの! 私たちは子どもなんだから遊ぶのだって大事なの!」
「また稽古から逃げる口実では……?」
「んもぉ! アダムはいつも難しいことを言うんだから! そんなどうでもいいの! 私は――――アダムと一緒に冒険がしたいの!」
そう言いながら満面の笑みを浮かべる彼女。部屋から廊下に、廊下から階段を上る上層階へ、今度はいろんな部屋に入ってはこうでもないああでもないと呟きながら、握った俺の左手は絶対に離さない。
しばらく歩き回り疲れると、一階にある厨房に向かう。そこにはムスっとした料理長がいて「またお前らか……」と、貴族の子息に向かってまさかの「お前」呼びをするが、彼の性格はみんなが知っていて父上も母上も承知の上だ。それほどに彼の料理の腕は確かなモノだから。
料理長は大きな溜息を吐きながら、コップ一杯の果実水をそれぞれ渡してくれる。俺はいらないと言っているが、姉がうるさいので一緒に飲み干す。
前世では水以外は一切摂取しなかったのに、ここでは甘いモノからいろんなモノを口にしている。味というものが人を堕落させている理由がよくわかるものだ。こんな美味しいモノを毎日食べていれば、いずれ人は溺れるというのに……。
果実水を飲み干して料理長に空きコップを渡すと、後ろから凄まじい殺気がこちらに向けられる。
「ひい!?」
「そ~ふぃ~あ~ちゃ~ん?」
全身から滝のように汗を流しながら引き攣った表情で後ろを向く姉。
「お、お母様?」
「あらあら~今日も楽しそうにアダムちゃんとお散歩かしら~?」
「は、はいっ!」
「…………」
笑っていた母の顔が一気に鬼の形相に変わり、姉を見下ろす。後ろに禍々しいオーラが見えるようだ。
「稽古をサボる口実にアダムちゃんを使うなと何度も言ったわよね?」
「ち、ちがうの……あ、アダムも……一緒にいきたいって……」
母の目が今度は俺に向く。ああ。この殺気にも慣れてきた。これは――――優しい殺気だ。誰かを殺すためではなく、威圧するためだけの殺気。普通の子どもであれば恐怖し体を震わせるのは当然だ。
「母上。僕が誘いました」
「アダムちゃん? 嘘があまりにも下手すぎるわよ?」
「僕が誘いました」
母は大きな溜息を吐きながら肩を下ろす。
「アダムちゃんってば、そうするからソフィアちゃんがちゃんと稽古に行かないのよ?」
「うぅ……だって……」
姉は目に涙を浮かべて両手の人差し指を合わせながら落ち込んだ。
稽古というのは、護衛用の剣術の稽古だ。もちろんそれだけじゃない。我々貴族の子息には、貴族としての使命により、学園に入学する必要がある。王国のために人材確保の意味合いが強いが、それだけでなく貴族同士の才能の見せ合いにもなるし、それがお互いをけん制することにも繋がる。
どこの世にも上層部の権力争いというものだ。
「ちゃんと稽古を受けないといい才能を授かれないわよ?」
「才能なんていらないもん! 私はアダムさえいればいいもん!」
「ソフィアちゃん。アダムちゃんが困ったときに守れる力が欲しいんじゃないの?」
「アダムが困ったとき……?」
「そうよ。今でも隣国との戦争は終わりが見えないわ。いずれ、アダムちゃんも戦場に立たなければならないときだってくるかもしれない。そんなとき、ソフィアちゃんに少しでも力があれば、アダムちゃんのためになるでしょう?」
姉は目を大きく見開いて、可愛らしい顔で大きく頷いた。
この世界には王国が四つ存在していて、それぞれがお互いの領地を巡って日々戦い続けているらしい。貴族の責務として、才能がある子息は王国の戦力となるのが定められている。
才能には男女も関係なく、むしろ、女性の方が強力な才能を授かる確率の方が高いという。それもあって姉は日々剣や貴族作法の稽古、魔法などの勉学にも励んでいるのだ。いや、されていると言えるだろう。
母に従って俺を置いて離れていく姉の寂しそうな背中が見えた。
ちらっと俺を見つめた姉の顔は寂しそうなものだった。
ふと思い出すのは、一歳の頃にわがままに俺に右手を差し伸べてくれた姉の姿。姉は覚えていないだろうが、俺はあの日を今でも覚えている。アダムとなって初めて立った日のことだ。
「母上」
俺の声に二人が足を止めてこちらを見つめた。
「アダムちゃん? どうしたの?」
「その稽古。僕も見学させてください」
「えっ……? でもアダムちゃんは来年からだよ?」
「来年も今年も同じです。どうせ学ぶのなら――――僕は姉上と一緒がいいです」
「アダム……!」
姉は嬉しそうに笑みを浮かべて俺に走ってきては――――頬をすりすりしてくる。母同様に。この母娘は俺に頬をすりつけてくるのが趣味だ。
「アダムちゃん……稽古って大変よ? 今年いっぱいは…………ううん。アダムちゃんがそうしたいなら止めることなんてないわね。わかった。でも最初は見学程度よ?」
「はい。母上」
「わ~い! アダムと一緒だ~! 稽古なんてアダムと一緒に受けたらよかったわ。これなら毎日楽しいもん!」
姉よ。俺がいてもいなくても違いはなかろう…………まあ、でも俺が居た方がいいのなら、その方がいいだろう。
気付けば左手を姉が、右手を母が握りしめていた。
「「さあ、行きましょう~!」」
どこか母も嬉しそうに姉と声を被らせて声を上げた。
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