第5話 許された明日
トクが部屋をふたたび訪れ、手拭いと粗香油の石鹸をゼノに手渡しました。
「廊下を右に行った突き当たりが風呂だ。浸かれるだけの湯も沸いている」
「いいな。湯は久方ぶりだ」
「それと、これな」
そういい、トクは手に持っている布地をゼノに示します。
手にとって広げると、紺地の装束でした。小さいものですが、厚手です。
「なんだ」
「子供の着物さ。客が置いてった。銭が足らんというので、足しにな。うちには子がねえから使いようがなかったんだ。貰ってくれ。洗濯はしてある」
「そうか。すまん、助かる」
「あれじゃあ、あんまりだからな」
ふたり、振り返ります。リィはきょとんとした顔をしていました。
彼女が纏っているのは、樹皮を叩いてこさえた粗糸の服です。もとよりごわごわの粗末な着物です。加えて、本来の色がわからないほどに擦り切れ、埃まみれ、垢まみれでした。
「明日にでも
ゼノは言うのですが、これは言い訳でした。気が回らなかったのです。無骨な武人ですから、旅の道具は気が付けども、衣装まで頭がゆかなかったというところです。
「まあ、まずは風呂だ。流せ」
「ああ」
ゼノはリィを呼び、風呂へ向かいました。
板戸をひくと熱い湯気がふわんとふたりにかかります。
「ひゃ」
リィは目を丸くし、身を引きました。
「案ずるな。湯だ」
「ゆ」
「心地よいぞ。流してやる」
「う、ながす、うう」
「はは。まず、脱げ」
おなごに脱げとは大層の言葉ですが、子供です。気にした様子はありません。ないのですが、脱ぐこと自体は嫌っているようです。後退りします。それをゼノは捕らえて、くるんと脱がしました。
自身も脱いで、二人分の衣類を浴場の隅の台に置きます。そうしてリィの手を引きますが、顔を振って抵抗するのです。脚も突っ張ります。が、ついに浴槽の横まで連行され、ぺたんと座らされました。
ゼノは笑いながら湯を汲み、さららと頭の上からかけまわしました。
「ううんにゅっ、ぺっぺっ」
顔に湯がかかるのが嫌なようです。水を吹いています。
ゼノは容赦なく石鹸を頭頂部にあて、削ります。泡立ったところで指を入れ、さくさくと左右に振ります。耳の上も擦ります。
その手際は、そうした作業が彼にとって初めてのものではないことをよく示すのです。
ゼノは目を細めて、リィのしかめ面を眺めました。それから首と背中を擦ってやり、擦り布を手渡して、自身の身体を適当に洗って湯に入ってしまいました。
「自分でやってみろ。
リィは渡された泡だらけの布を眺め、それをぽんぽんと腹などに打ちつけています。
「擦る、のだ」
湯船のなかで手本を示すと、リィは相当の苦心の末、なんとか前の方を洗うことに成功しました。ゼノは手を伸ばして湯をかけてやり、こいと呼んで、リィの小さな身体を持ち上げました。湯に浸けます。
熱い湯ではありませんでした。それでもリィは、引き攣ったようにびくんとなり、ゼノを振り返ります。うんと頷くと、情けないような表情を浮かべて、それでも懸命に我慢しています。
「……なあ。お前、どうしたい」
しばらく浸かったのち、ゼノは鬼の子の紅い頭を眺めながら、独り言のように呟きました。
「ん。めし、喰う」
「ああ。めしを喰おう。そうして眠って、明日、そのまた明日。ずっと先の明日。どうしたい。なにがしたい」
「……」
ゼノの質問は、リィには難しいものです。彼にはそれがわかっています。答えがないことを知りながら、それでも何故となく、そう訊いてやりたくなったのです。
生きることが叶って、そうして、どこで、なにがしたい。
生きて良いと言われて、お前は、なにを願う。
と。
「お前は」
唐突にリィが言うので、ゼノは面食らいました。
「んあ、俺、か」
「お前、なにがしたい」
リィのまっすぐ見上げる瞳の、灯火を映して揺れる深い金色に、どうやら嘘はつけないのです。
「……おじさんはな、しなければならないことがあるんだ」
「なにだ」
「取り返すんだ。おじさんの、大事なもの」
「盗られたか」
「盗られた。や、ここにある。胸にある。でもな、それを
リィは
こんな言い方を、理解できているとは思えません。ですが、ゼノは、この子にはそうやって伝えたいと、いま伝えておきたいと、どうしたわけか思うのです。
「……そうか」
「ああ。で、お前は」
「……あした、お前と歩く。それで、また、歩く。それで、肉、あがなう。歩く。肉、あがなう。歩く。ずっと」
「……」
ゼノはしばし真顔になり、それでも笑って、リィの頭をくしゃりと揉みます。
出ようか、と声をかけました。
湯船から引き上げてやります。リィは獣のように頭を振って水気を飛ばしました。絞った布で拭いてやり、自らも拭いて、着物を身につけました。
リィの分はさきほどトクから受け取った紺地です。広げて不思議そうな顔をします。ゼノが着せ掛けてやると、嫌そうにしていました。慣れないためでしょう。が、やがて大人しくなりました。肌触りはずいぶん改善したはずです。気に入ったのかもしれません。
部屋に戻ると、すでに膳が置かれていました。
焼いた川魚、根菜と豆を煮たもの。それぞれ小さな皿に盛られています。飯の器が空なのは、これから盛り付けにくるのでしょう。
リィが目を輝かせます。飛び掛かろうとしますが、襟首をゼノが掴みます。膳の前に座らせ、待たせます。
さきほど串をたんと喰ったのですから、そう空腹とも思われませんが、鬼の子です。消化もよいのでしょう。膳に齧り付きそうな表情でそわそわしています。
と、声がかかりました。
「ごめんくださいまし」
からりと襖を開けて、トクの女房が床に手をつき頭を下げました。脇の飯桶を抱えて立ち上がります。襖を閉めて振り返ります。
「あ」
手拭いを巻いた頭が揺れました。驚いたようです。目は、リィのほうを見ていました。
「ああ。顔を見せてなかったな」
「……」
女房は手を口に当てていましたが、やがて我に返ったようで、あらやだ、と手のひらを振って見せ、笑いました。
「鬼の子さんだったんだねえ。てっきりお客さんの子かと」
「害はない。案ずるな」
「……あはは、大丈夫ですよ」
そう言い、二人の前に膝をついて
「珍しいか」
「え、ええ。うちは鬼のお客さん、来られたことなかったもんでねえ。こんな間近でお顔を見ることがなかったんですよ。まあほんとにくっきりと、綺麗な紋が、ほっぺたに。お目目も、金色」
「俺も鬼の子は初めてだ」
「お知り合いのお子さんで」
「いや。拾った。どこぞへ預けようと」
「おやまあ、奇特なこと」
言いながら手を動かし、給仕を終えると、女房はごゆっくりと再び頭を下げて出てゆきました。
襖が閉まると、リィはゼノの顔を見上げます。口の端には涎が見えます。
頷いて返すと、ぱっと皿の上の魚を掴んで、ばりばりと頭から齧り始めました。十を数えるうちにもう無くなっています。椀を持ち上げ、あつあつの麦飯をふうふう言いながら、手で口に運びます。
「箸……は、おいおい、だな」
ゼノはその様子をしばらく見遣ってから、膳の前で手を合わせ、箸を取り上げました。
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