第3話 あり、とう


 白羽しろはねの谷が近づくにつれ、リィが飛び歩く速度はどんどんあがっていきます。

 家々の見分けがつくほどの距離になると、とうとう走り出してしまいました。ゼノがおいと声をかけましたが、聞いていません。あっという間に姿が小さくなります。


 彼はため息をつきましたが、どこか嬉しそうなのです。それでも、ひとりで集落に入れるわけにはいかないのですから、ぱっと走り出します。

 本気で走れば、ゼノはやはり大人の男ですし、足も長い。すぐに追いつきます。がっしと背中をつかまれ、リィは、ひゅいというような声を出しました。

 

 「ならん。賑やかなところへゆくときは必ずおじさんと一緒だ」

 「どうして」


 首を掴まれたまま少しだけ振り返り、不思議そうに見上げます。


 「お前が鬼の子だからだ。まだ鬼とひとが共に暮らすことに慣れぬ者が多い」

 「怒られるのか」

 「怒られはせぬが、嫌な目にあわされるかもしれん」

 「どんな」

 「嫌な目は、嫌な目だ。わかれ」

 「わかった」


 リィは頷くのですが、本当にはわかっていないのです。ゼノも、そこはそう深く考えません。ぽんと手を離して一緒に歩き出します。

 集落が近づくにつれ、飯の匂いが満ちてきます。肉と芋を焼いています。魚の汁を煮ています。香ばしいのは、餅でしょうか。米になにかを混ぜて炊いているようにも思われます。

 リィはもう、堪りません。よだれがこぼれないように一生懸命、食いしばっています。ゼノはその様子をおかしそうに眺めています。


 集落は簡単な藪壁やぶかべで囲まれていました。木戸もあります。が、誰でも開けられるようになっており、立哨りっしょうの者なども見えません。

 ですから、外と中はひと続きであって、空間が異なるわけでもありません。それでもリィには、木戸の向こうに立ってみると、改めて別の世界に来たように思えたのです。


 背丈四つ分ほどの幅の大路の左右に、ずらと店が並んでいます。小さな店ばかりです。ですが、山暮らしのリィには、夏の日差しを受けて輝く川面よりも、雲がない秋の夜の星空よりも、たくさんたくさんのきらきらで溢れていると、感ぜられたのです。

 ひとも大勢、います。そぞろに歩いているし、店の前に腰を下ろしてなにかを喰っている者もいます。歩いている者には気をつけないとすぐに打ち当たってしまいそうです。リィは呆然として大路の真ん中に突っ立っていますから、往来の邪魔でもあるのでした。

 ゼノが、おい、と背中をつつきます。はっと我に返り、小さな鬼の子はゼノの裾を強く引きました。


 「なあ、喰って、いいのか、あれ」

 「どれだ」


 リィが指さしたのは、右手の三軒ほど向こうの串屋でした。鳥か獣の肉を串に刺して焼いています。芋も見えます。香辛料が使われているようで、先ほどからの香ばしい匂いはその店からだったのです。


 「ああ、いいぞ。あがなう」

 「あがなう」

 「ぜにを要するのだ。おじさんは多少、それを持ち合わせている」

 「ぜに。それを、どうする」

 「やるのだ。店に。すると肉が来る」

 

 リィは少し考えていたようですが、頷きました。


 「なら、やろう。ぜにを」

 「ああ。やろう。ほら」


 ゼノは懐から巾着を取り出し、中から小さな硬貨を一枚つまみ取りました。リィの方に示すと、小さな手のひらを差し出してきます。

 載せてやると、リィはぱっと走り出し、一度止まってゼノに振り返ります。笑って頷くゼノの顔を見て、リィはまた走り出し、店の前に立ちました。

 手のひらの硬貨を差し出します。

 が、どうやら様子がおかしい。いつまでも肉が与えられないのです。ゼノはしばらく眺めていましたが、そちらに歩み寄りました。

 

 リィは店の前で、口を引き結び、手のひらを、ん、と相手に差し出しています。店の中には太った男。黒い前掛けの中に手を入れ、眉を顰めて立っており、ただ、リィから硬貨を受け取ろうとしないようです。


 「どうした」


 ゼノが声をかけると、リィは振り返って手のひらを示しました。


 「肉が来ない」

 「なんだ、あんた、この鬼の子の連れか」


 店主が驚いたような声を出しました。


 「ああ」

 「てっきり迷い込んだ鬼の子が、盗みを働いたんじゃねえかと」

 「いや、それは俺の銭だ。売ってやってくれ」


 店主は頷いて、串を炭から持ち上げ、懐紙で包み始めました。リィはその手をじっと目で追っています。


 「でもあんた、鬼じゃねえだろ。なんだってそんなの連れてんだ。この辺りじゃまだ、鬼に存念を持ってる奴も多いぞ」

 「うん、いや、わけもないのだ。道行で出会って、良きところに預けようと思って拾った」

 「拾った。また、酔狂な」

 「この集落には鬼は住んでいないのか」

 「住まねえ。商売をするような奴らが時折り訪ねては来るが、すぐにどっかに行っちまう。ここらでな、ちょっと大きな戦があったんだ。鬼に家族をやられた者もいる。俺は特段、どうということはないが、あまり鬼には住み良い在所じゃねえな」


 店主はリィに、ほらよ、といって串を手渡します。

 リィはそれを受け取り、焼けたところに手が触れて、きゃっと声を上げました。

 ゼノは店の横手、木組こぐみの長床几ながしょうぎを指さします。


 「そこに座って喰え」

 

 リィは目を輝かせて床机に走ります。ぽんと腰掛け、懐紙をばりばりと破り捨て、肉に向けて口を大きく開けました。

 が、止まります。

 止まって、ゼノをじっと見ています。


 「ん、どうした」


 リィは、手の串を、ゆっくりとゼノの方に差し出しました。

 眉を複雑に歪め、なにかを堪えているような表情です。


 「さき、喰え。お前の獲物」


 ゼノはしばらくその顔を黙って見ていましたが、やがて吹き出しました。


 「いい。喰え。おじさんも別に贖う」

 「そうか」


 リィはぱっと笑って、串に齧りつきました。美味そうに咀嚼そしやくしています。みるみるうちに肉は無くなり、リィは、名残惜しそうに塩と脂のついた指を舐めています。

 その様子を、ゼノと店主が眺めていました。


 「大きな家の子だったんだろうかな」

 「かもしれん。しつけがある。だが十分に学ぶ前に家を亡くしたのだろう」

 「どこにいたんだ」

 「山だ。宵出よいいでの山」

 「国境くにざかいか。あの辺りも大きな戦場になったな」

 「俺を見て、お前らが親を焼いた、と言っていた」

 「哀れな話だ。どうするんだ、当てはあるのか」

 

 当てというのは、リィを預ける先のことです。

 ゼノは首を振りました。自身も肉の串を受け取りながら、少し笑います。


 「なんにもない。俺はいったい、何をしたいんだろうな」

 「はあ。本当に、酔狂だな」


 と、リィがゼノの足元に来ています。彼の手の串を、じっと見ています。

 ゼノは、ぷと息を吐きました。


 「これも喰うか」

 「喰う」


 リィは猫のように目を半月形にして、それを受け取りました。


 「……あり、ありと、う」


 ゼノが目を丸くします。


 「ん、ありがとう、か」

 「そうだ、ありがとう、お前」


 そう言って、また長床几の方に飛んでゆきます。

 ゼノと店主は顔を見合わせました。


 「……なあ、今日はどこに泊まる」

 「それも、当てはない」

 「これも縁だ。うちにどうだ。部屋がある」

 「いいのか。あれが、一緒だぞ」

 「だからよ」


 そういい、店主は首を伸ばして、肉に齧り付いているリィを見やりました。


 


 



 

 

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