第2話 飯の記憶


 ゼノは歩くのが速いのです。


 背が高く脚も長く、それでさっさっと遠慮なく動くものですから、リィは油断するとすぐに置いて行かれてしまいます。

 連れていく、と言った以上は小さな相手に配慮しても良いようですが、彼はそうした了見を持ち合わせていないようです。

 森を抜けたところに木春菊もくしゅんぎくの白い花がたくさん咲いていて、リィが知らずそちらに目を取られているうちに、もうゼノの姿は向こうの木立に隠れてしまっていました。


 「あっ」


 声をだし、慌てて、とととっと走ります。

 残酷に映ずるような光景ではありますが、案外リィには、疲れはありません。鬼の子ですから。

 鬼は、頑健です。生まれから人の子とは異なります。臍の緒がまだとれぬうちから、もう這うことができるのです。半年も経てば走ることができますし、三つになれば、その子の紋章に応じた能力を使うことすらできるようになるのです。


 リィはすぐにゼノに追いつくことができました。

 ゼノは横に並んだ鬼の子の頭に、歩きながら手をぽんと載せます。どうもこの男はその仕草が好きなようです。リィは、む、と顔をしかめました。


 「今日中に白羽しろはねの谷まで辿り着きたい。すまんが、足はゆるめんぞ」

 「いい」

 「うむ。腹は。もう昼を越えるが、乾飯ほしいいくらいしか無い」

 「いい」


 ゼノは頷いて、また前を向いて大股で足を出してゆきます。リィもくくっと、細く柔らかい眉をそば立て、肘を曲げて手を大きく振り、ついてゆきます。


 森を出たのは朝方で、まだ数刻すうこくしか経っていませんが、二人は休まず歩きましたから、昼前には国境くにざかいを越えることができました。この調子でいけば白羽の谷には陽が落ちる前に辿り着きそうです。

 白羽の谷には宿屋も飯屋もたんとあるぞと、ゼノは出立の時にリィに説明したのですが、どちらもリィに馴染みのない言葉でしたから、ただ首を傾げただけでした。


 まだ冬の名残も僅かに残る春の入り口でしたから、すこし風がひやっと感じられました。遠い峰々はまだ白い帽子をかむっています。それでもお陽さまは高く、雲もなく、ちちちと小鳥も群れ飛んでいるのです。

 リィは花の名前をほとんど知らないのですが、それでもたくさんの色と香りを帯びて輝く野原に立って、わあと声をだし、腹をへこまして空気を吸って、思い切りふうと吐いて、笑いました。その髪も、頬も首筋も、分け隔てなく与えられる天空の恵みを受けて輝いています。

 ゼノはそうした様子を、ときおり振り返って眺めているようです。笠が深いので、表情までは見て取れません。それでも口元がすこし曲がっているのは、たぶん、微笑に似たものを作っているつもりなのでしょう。

 

 ときどきは遅れそうになりながら、それでもリィは懸命についてゆき、二人はやがてこの国を見渡す丘に立ちました。

 ゼノは、すでに山に触れようとしている太陽を背景に、道行きのずっと先に霞んで見える、山間やまあいの大きな集落を指差しました。いく筋かの煙が登っているようです。さすがにひとの姿までは見えませんが、リィは、その鋭敏な感覚でなにかを感じ取りました。もう、鼻をひくつかせているのです。


 「あれが白羽の谷だ」

 「……けむり」

 「ああ。飯がある」

 「めし」


 ゼノの返事を待たず、リィは歩き出しました。早足です。少し目尻のあがった両のまなこが見開かれています。ゼノは笑いながら追いかけました。


 「お、食い気だな。お前、なにが好みだ」

 「このみ」

 「どのような食い物が欲しいのだ」

 「……」


 リィは歩きながら天を仰ぎ、なにやら思案していましたが、やがて下を向きました。歩く速度が落ちます。


 「……とうのとった、とり、かあのやいた、さかな」


 ゼノは歩く速度をあわせて、首を大きく縦に振って見せました。


 「美味かったのだろうな」

 「う」

 「その味、忘れるな。父御ててごの鳥、母御ははごの魚。決して忘れるな」

 「……ん」

 「だがな」


 そういい、ゼノはぱっと、足を出す勢いを強めました。飛ぶように進みます。リィは顔をあげ、慌てて追随します。ゼノは振り返って声をあげました。


 「今日はおじさんが馳走ちそうする。その飯もまた、美味いぞ」

 「うまいか」

 「ああ。美味い。美味くて魂消たまげるぞ」

 「とり」

 「ある。魚もな」

 「そうか」


 リィも足に力を込め、ぽんと踏み出します。リィは鬼のうちでも足腰が強い子でしたから、今度はゼノが置いてゆかれます。

 それでもこの長身の武人は、笠の中で楽しげに笑っていたのです。



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