とんとんからりん

壱単位

第1話 とんとんからりん


 とんとん。

 からりん。

 とん、からりん。


 むかし、むかあしの、おはなし。


 森のなかはもう、お陽さまも届かないくらいたくさんの枝が茂っていて、それでもころころ溢れる朝の光の粒たちが、おおきな樹々に負けないくらい濃い緑の下草に降るのです。

 深夜の雨のつゆがまだ笹に残っていたから、リィはそれを上手に掬って、くちに運びます。冷たい刺激がリィのちいさな唇を喜ばせます。頬に刻まれた紅い紋章が、いっとき、ふわり鮮やかに色づいたように見えました。


 リィが動くたび、樹皮の粗糸で編んだ一張羅がかさこそと音をたてます。肌触りはよくないけれど、リィにはこれしかないのだから、仕方ありません。

 喉が潤ったので、リィは口をぬぐいながら立ち上がりました。

 まだ、大人の腰ほどの身長しかありません。

 それでも、頬の紋章と同じ燃えるような緋色の髪が腰まで伸びていること、森で生き抜くための経験を充分に積んだことを示す瞳のつよさが、この幼い鬼の子を実際の歳より少し大人びて見せていたのです。

 

 今日は大縄手おおなわての松まで懸巣かけすを追いに行こうか。それとも宵出よいいでの山裾まで遠歩きをしようか。

 まだ陽が登ったばかりです。いちにちは、たくさん残っています。リィは楽しい計画にちいさな胸を踊らせながら、弾むように草のなかを歩いてゆきます。


 と、遠くからざわめきが近づきました。

 普通の人間にはわかりません。でも、リィは鬼の子ですから、その足音が大人の男のものであり、その人は腰に大きな武器を下げていることまで聞き分けることができたのです。

 リィはすうと息を吸い、笹藪に潜みました。生きている証をすべて消しました。もう、ずるい蛇でもリィを見つけることは叶いません。

 足音が近づきます。目の前に至ります。

 大きな男でした。竹で編んだ笠を被り、腰に長い刀を佩いています。ちらと見えた目つきの鋭さに、リィは息を呑みました。呑んだ拍子に、つい、笹の葉を鼻の穴に刺してしまいます。

 くしゅん。

 男の足が停まります。

 リィは口を押さえます。が、遅かったのです。

 男はリィのほうへ手を伸ばし、笹の中をさぐり、リィの腕を掴みました。

 リィはもがき、逃れようとしました。それでも男の力は強かったのです。引っ張られ、笹藪の外に出されました。


 転がるように下草の上に座り、少しの間ぼっとしてから、リィは、諦めました。これでいのちは終わり。仕挫しくじった。でも仕様がない。痛みを感じないように、息を止め、気持ちを空に逃しました。次は人間の子に生まれたい、と、願いを載せました。


 ぽん、と頭に手が置かれます。つのを探ったのでしょうか。


 「鬼の子か」


 男は屈みました。それでも、リィの頭は男の胸のあたりです。

 返事をしたものか迷って、リィは、そっぽを向きました。


 「親は。父御ててご母御ははごはどうした」

 「……」

 「喋れないのか」

 

 男は身振りでなにかを示そうとしましたが、リィは金を帯びた瞳を男の方に向け、ふ、と鼻を鳴らしました。


 「喋れる」

 「ほ。お前、いくつだ」

 「……むっつ」

 「親にはぐれたのか。なんでこんな、国境くにざかいの寂しいところにいる。家は近いのか」

 「家。ない」

 「ないって、どうした」

 「焼けた。とうも、かあも、焼けた」

 「……」

 「お前らが、焼いた」

 

 リィは男の顔をまっすぐ見据えて、感情のこもらない声を出しました。

 男は少し黙って、それから、リィの背中についた落ち葉をぽんぽんと払いました。


 「……ゆくとこ、あるのか」

 「山。ここ、住んでる」

 「おじさんと、行かないか」


 男の言葉を、リィはしばらくの間、胸のなかで転がしました。

 いっしょに。こいつと。どこ、へ?

 どうして?

 男は竹の笠を取りました。やや茶色を帯びた頭髪が頭の後ろで結われています。額の傷は、古いものでしょう。二本の雷のような印が、太く濃い眉の間に刻まれています。

 その眉を穏やかにして、男はもう一度、リィの頭に手のひらを載せました。


 「おじさんは都に登る」

 「みやこ」

 「ああ。大きな町だ。おじさんはそこでやることがある」

 「おれ、みやこで売られるのか」


 男はじっと、リィの目を見つめます。それから、ぶはと息を吐きました。


 「おじさんは都までゆくが、お前は道中のよさそうな村に預ける。もう鬼と人の戦は終わったんだ。いつまでも山で逃げ隠れしている必要はない」

 「……なんで」

 「ん?」

 「なんで、おれ、連れて……お前、おれ」


 どうして見ず知らずの鬼の子を、こんな汚い身なりの自分を連れてゆくのか。あなたにどんな利益があるのか。そういうことをリィは訊きたいのですが、あいにく、そこまで言葉が上手ではありません。

 ですが、男は察しました。

 

 「……おじさんにも、息子がいてな。お前とちょうど同じ年恰好だ。国に置いてきた。だから、なんとなく、かな」

 「……あ、おれ……」

 「どうした、嫌か」

 「い、や……じゃ、ない」


 男は、破顔したのです。


 「重畳だ。よし。では、ゆこう」


 立ち上がって膝を払い、笠を被りました。

 リィはまだ腰を落としたままです。男は手を差し伸べました。その手を恐る恐る掴んで、リィは立ち上がりながら、小さく声を出しました。


 「……あの、な」

 「うん、なんだ」

 「……おれ、女だ」


 男は改めて鬼の子を見下ろし、それから、大笑しました。


 「あっはは。すまん、すまん。そうか。名は」

 「リィ」

 「リィか。良い。おじさんはゼノだ」

 「ぜの」

 「ああ。よろしくな、相棒」


 

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