二、下り坂物思い

 急いで下るつもりはない。夜ふけに街へ入ろうとするのは愚の骨頂だ。だいいち木戸が閉まっている。


 帰り道よりも、みみずの忠告こそ深刻だ。伊賀者なら幕府に直接つながっているだろう。ならば、いつ自分が消されてもおかしくない。もう一つ、依頼主は獲物の正体を隠したことになる。こちらも許しがたい。


 そもそも、左膳は好きで殺し屋になったのではなかった。さりとて、本来の人生に生きがいを感じていたのでもなかった。


 一応、江戸生まれの江戸育ちではある。祖先は江戸定府えどじょうふ伯耆ほうき(鳥取県西部)藩士で、子孫はそのまま江戸に定着した。ただし、彼自身は滝戸家の跡継ぎどころか嫡流ですらない。


 左膳は、父の元で働いていた手伝いに手がついて生まれた。母が品川の外れにある自分の実家に引きとり、母方の祖父母に育てられた。


 そうした事情は数えで十になるかならぬかのころに祖父母から聞かされた。幼心に抱えた傷とむきあうひまもなく、父は贋金造りで処刑された。すると、祖父母の態度が手のひらを返したようにかわった。かつてはまがりなりにも武士の子として左膳に敬意を払っていたのに、罪人の子として扱われるようになってしまった。母は父の死から行方不明でどうにもならない。


 荒んだ心を抱えて家出した左膳は、博打に明けくれた。文なしになったら日雇いでその場しのぎの金を稼ぎ、少し余裕ができたらまた賭場へいく。そのさなか……二十歳を多少すぎたときか。みみずに会ったのは。


 左膳は裏路地でいきなりみみずに叩き伏せられ、どこかの荒れ寺に連れていかれた。縛られたまま刀をつきつけられ、いうとおりにするか殺されるかすぐ選べといわれては従うほかなかった。


 みみずは、数ヶ月をかけて気配の消しかたから刀の使い方、さらに暮らしのたてかたまで彼に教えこんだ。


 それまで無頼を気どっていた左膳は、しかし、みみずの三回りも小柄な体躯といかにも手厳しげな目鼻だちにどうしても逆らえなかった。さらに、左膳は男でみみずは女だが『その道』を意識はしなかった。心のどこかで親の代わりと甘えていたのかもしれない。歳は明らかに彼の方が上だというのに。


 じっさい、みみずの課した修行はなまくらではなかった。素手で組みあっては投げられ、木刀で打ちあっては喉元に切っ先をつきつけられ……まるでかなわなかった。


 みみずは自分をみみずと名乗ったほか、一対一とはっきりわかるとき以外に師匠とは呼ばせなかった。師として敬うことも不要。名前からしても、みみずとは言葉そのままにただの虫にすぎない。特別な意味はなかった。


 みみずは急に姿を消した。書き置き一枚残さなかった。入れ違いに、いまもつきあいがつづく雇い主が現れた。狐面と村正は、みみずから預かったという前置きを踏まえて雇い主から渡された。そればかりか、わざわざ質屋までかまえてくれている。だから、どんな頼みも飲まねばならなかった。だが左膳にも譲れぬ一線はある。


 つらつら回想しつつ、左膳は抜け道と街道の境目にある寂れた神社を目前にした。いっちょまえに『金時権現きんときごんげん』などと記した神額しんがくが鳥居についているが、彼がいるのはその真反対側だ。竹林といばらに包まれた拝殿は、瓦の抜けた屋根が斜めになっている。本殿は最初からない。


 竹をかきわけながら拝殿の裏に至り、そのまま土足であがった。まずは寝て、夜明けには拝殿の脇にある古井戸で衣服についた返り血を洗わねばならない。話はそれからだ。


 その日の朝、ようやく左膳は品川にある自宅兼店舗に帰った。むろん、短刀や狐面は金時権現をでるときに行李こうりにしまった。


「旦那様、お帰りなさいませ」


 門前でほうきを握っていた少年が、丁寧にお辞儀した。まだ十七で、にきびがすこし浮いている。


「幸助、よく働くな」


 目を細めて左膳はねぎらった。


 数年前。幸助は、本人の伯父から左膳に紹介された。伯父とは左膳の裏稼業の雇い主と同一人物でもあった。当然ながら、幸助は左膳の裏稼業を知らない。


「いえ、とんでもございません。奉公人として当然のことで」


 流れるように立派な言葉づかいだ。


 うなずきつつ、左膳はちらっと自宅の軒先を眺めた。将棋の駒をかたどった、横幅三尺縦幅一尺ほどの看板がぶらさがっており『質 さんぜんや』とある。将棋で、王将と飛車角を別にした駒は敵陣にはいると金将になれる。質屋がよく使う駄洒落だ。


 幕府が大々的な改鋳をおこない、世の金回りを安定させる一方で質素倹約が上から下まで徹底されている。米公方こと八代将軍吉宗の治世は、結果として質屋をやたらと増やしてもいた。


「おっと、いい香りだな。飯がまだだろう。一休みだ」

「いえ、もったいないです」

「かまうなかまうな。俺がそうしろといっているんだ」


 こんなやりとりもまた、いつものことだった。


 幸助をしたがえて質屋の裏へいき、勝手口をくぐると味噌や野菜の香りがさらに強くなった。裏庭を経て、二人は人一人が通りぬけできる程度の玄関をくぐった。


「帰ったぞ」

「はーい」


 幸助と大して歳の差がない、快活な少女の声が奥から響いた。すぐに軽い足どりが聞こえ、手伝いのおはまがかまちに正座した。左膳が質屋を始めたときから雇っている。


「お帰りなさいませ、旦那様」

「ああ、ただいま」

「また朝帰りですね。朝ご飯もいらないんじゃありませんか」


 笑いながらどぎついことをいわれたが、左膳はしかつめらしく黙っていた。不快なわけではなく、おはまはいつもこんな風だし好きにやらせている。


「あのな……」


 なにかいいたげな幸助を苦笑しながら目で制し、左膳は履き物をぬいだ。幸助は、左膳の草鞋をそろえてから自分のそれをすませた。


 居間に座ると、おはまはすぐに膳をだしてくれた。麦飯に大根の味噌汁、おかずは鯵の干物。質素ながらもおはまの料理は火加減や匙加減をきちんとわきまえていた。


「ご馳走さまでした」


 幸助が頭を下げた。


「幸助、俺はこれからまた外にでる。店番を頼む」


 幸助は、難しい客や用件でなければ自力でさばけるようになっていた。


「かしこまりました。お帰りはいつころになられましょう」

「昼前にはもどるだろう」

「左様で。心得ました」


 幸助の礼儀正しさは、頼もしくもある一方でうしろめたくもあった。行李は質草を保管する土蔵にしまっておき、着のみぎのまま出発した。

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