第20話 万年筆


 深夜。


 柊征しゅうゆ金了こんりょうが暮らす街を一望できる高層ビル。その屋上に立つたもるは、目を伏せて過去に思いを馳せる。


 死神にとってはつい最近の──五十年ほど前の話だった。



「……兄さん、話があるんだ」


 その頃、死神の本拠地である寝殿造しんでんづくりの邸宅にいたたもる


 釣殿つりどの(独立した廊下の先端にある建物)で池を見渡していた賜に、後ろからやってきた青年が声をかけた。


 賜によく似た顔、同じ空色の狩衣かりぎぬまとった彼は、たもるの双子の弟──たつきだ。


「どうしたんだ、たつき


「実は俺、結婚するんだ」


「おお、良かったな。相手はソラか?」


「違うよ。宿神やどがみなんだ」


「宿神? どうして……ソラのことが好きだったんじゃないのか?」


「いや、俺はとうとう運命の相手に出逢ったんだ」


「お前の口から、運命なんて言葉が出るなんてな」


「彼女は素晴らしい人なんだ。どうしてもっと早くに出逢わなかったんだろう」


「まあ、お前が幸せなら、良いと思うが」


「今度紹介するから、兄さんも会ってくれる?」


「もちろんだ」


 その時、賜は弟の幸せを心の底から祝福をした。


 誰が反対しようと、兄である賜だけが味方になろうと決めていた。



 ────が。



「どうして、こんなことに……? 幸せになると言っていたろう?」


 次に屋敷で会った時、たつきは変わり果てた姿をしていた。


 樹の見た目は変わらない。賜と同じ顔をしている。


 しかし、まとう空気は死神のそれではなかった。


「ごめんね……兄さん。どうやら彼女は俺のことを愛していたわけじゃなかったみたいだ」


「どういうことだ?」


「俺は利用されたんだ。でも後悔はしてないよ」


「その体で、これからどうするつもりなんだ?」


「もちろん、あるがままの運命を受け入れるつもりだよ」


 一切悔いのない弟の顔。


 だが、兄の賜は誰よりも憎しみを燃やした。




 ***




「おかえり、明生あい


「ただいま。お兄ちゃん」


 いつものように学校から帰宅した私──明生を玄関まで出迎えてくれたお兄ちゃんだけど、その顔はどこか困ったような雰囲気をしていた。


「お兄ちゃん、元気ないね。どうしたの?」


「え? い、いや……ちょっと混乱してるだけだ」


「混乱って?」


「あ、ああ……とんでもないことがわかったからな」


「とんでもないことって何?」


「……いや、仕事のことだから、お前は気にしなくていい」


「……お兄ちゃんが嘘ついた」


「なんだ?」


「ううん、なんでもない」


 ……私、お兄ちゃんの『悪い部分』もわかるようになったんだ?


 私とお兄ちゃんの間に沈黙が流れる中、お兄ちゃんが先に口を開いた。


「そうだ明生! お前の好きなハーゲンダンスのアイス買ってきたぞ」


「え、嘘! 食べたい!」


「まあ、そう焦るな。アイスは逃げないからな」


甚人じんとに自慢しよう」


 高級アイスで私の気分が一気に上がる傍ら、お兄ちゃんはなぜかため息を吐いていた。




 ***




かざり、〝はぁげんだんす〟とはなんだ? 明生あいが食べたと言っている」


 自宅のリビングソファで本を読みながら寛ぐかざりの隣で、スマートフォンを見ていた甚人じんとが首を傾げる。


 文は本を閉じると、明生とやりとりする甚人を少し羨ましげに見下ろした。


「アイスのことだ」


「そうか。なら、このアイスを百個買ってくれ」


「はあ!? さすがにその量は冷凍室に入らないぞ」


「お前と明生が良い雰囲気だった時、私は遠慮して隠れていたんだぞ! 〝はぁげんだんす〟をもらうくらい当然のことだろう」


「お前が意外と気を使えることはわかったけど、さすがに百個まとめて買うのは無理だから、一日一個を百回買ってやろう」


「うむ、わかった。じゃあ、さっそく今日買ってくれ」


「わかった」


「文は機嫌がいいな」


「傷心の明生を慰めて落とす作戦が上手くいったからな」


「本当に上手くいったのか? 明生は『考えてみる』と言ったんだぞ?」


「今までの『考えられない』より、大きな進歩だろ?」


「文は明生に似ているな」


「どういう意味だよ」


「腹が減ったという意味だ」


「お前と話していると、混乱する」




 ***




かざり


 放課後の図書室。


 文は呼ばれて振り返ると、口の端を上げる。


 視線の先には、彩楽さらの姿があった。


「久しぶりだな、彩楽。ずっと顔を出さないから、心配したぞ」


「す、すまない」


はずいぶん取り乱していたようだが、もう大丈夫なのか?」


「……ああ、明生のおかげで吹っ切れた。それより、明生に告白したのか?」


「明生から聞いたのか?」


「ああ。明生が相談してきた」


「明生の寿命をなんとかするには、俺との結婚が一番てっとり早いんだ」


「文と結婚……?」


「どうしたんだ? 難しい顔をして。彩楽さらは反対か?」


「いや、そういうわけじゃないんだ。……ただ、何かが引っかかるんだ」


「そういえば彩楽の記憶が戻ったそうだな」


「といっても、断片的にだ。思い出せないこともたくさんある。明生の体から抜ける方法がわからないんだ」


「簡単なことだろう? 彩楽が死神だというのなら、あの女のように、たましいを飛ばせば……」


「それができないんだ」


「そもそも、彩楽はどうして明生の体にいるんだ?」


たもるが私を明生の体に植え付けたと言っていた」


「賜が?」


「じゃあ、彩楽をどうにかするには、賜の力が必要だということか?」


 文は言って、肩で上品に肉まんを咀嚼そしゃくする甚人じんとに視線を向ける。


「甚人、ここは飲食厳禁だぞ」


「それより、たもるのことが気になるな」


「あ、話をそらした」


 文がうろんげな目で甚人を見ていると、彩楽が考えるそぶりを見せる。


「あの時、賜は本当に女に脅されていたをしていたのだろうか?」


 彩楽の言葉に、文も考えながら答える。


「明生が本当に神の『悪い部分』を見破れるならな。だが、神の『負の感情』を見破る力か……まことは大丈夫だろうか」


「充さんがどうしたんだ?」


 目を瞬かせる彩楽に、文は咳払いをして言った。


「彩楽は気づいていると思うが、まこと柊征しゅうゆしろなんだ。それが明生にバレたら……もう一緒には暮らせないだろう」


「どうしてだ?」


「どうしてと言われても……実は自分の兄はいなくて、神様と一緒に暮らしていると知ったら、気味が悪くないか?」


 文の懸念に対して、彩楽は不思議そうな顔をする。


「私は死神だから、人間にいとわれる存在だということはわかるが……宿神やどがみがなぜダメなのかわからない」


「まあ、明生の場合、未知数だがな」


「明生なら受け入れてくれるような気がするが……」


 彩楽が眉間を寄せると、甚人が冗談混じりに告げる。


「逆に柊征しゅうゆと一緒にいられて喜んだりしてな」


「……」


 かざりが眉間を寄せるのを見て、甚人じんとが文の顔をぺしぺしと叩く。


「振った相手といて、嬉しいこともないだろう?」


「甚人がまともなことを言ってる……」




 ***




「ただいま、お兄ちゃん」


 私──明生あいが学校から帰宅してリビングに入ると、カウンターキッチンからお兄ちゃんが出てくる。


「おう、お帰り」


 今日のお兄ちゃんはいつも通りに見えた。


「今日のご飯はなあに?」


「お前の好きなコロッケとエビフライだ」


「誕生日でもないのに、ごちそうだね」


「昇進したんだ」


「お兄ちゃん、すごい! 昇進おめでとう!」


「ああ……だから、これからは帰りが遅くなるかもしれない」


「え」


「一人で食事するのが寂しいなら、かざりを呼べばいい」


 今まで私のためにいつも早く帰ってきてくれたお兄ちゃんの、突然の報せだった。


 さっきまでのテンションが急激に冷えていくのが自分でもわかった。


「なら……私、お兄ちゃんが帰ってくるまで待ってる」


「はあ? 何時に帰るかもわからないんだぞ?」


「それでも待ってる。……私、ご飯はお兄ちゃんと一緒がいい」


「甘えたことを言うんじゃない。お前も高校生なんだ、大人の事情がわからないわけではないだろう?」


「でも……」


「お兄ちゃんだって、明生と一緒にご飯が食べたいんだ。だが仕事だから仕方ないだろう?」


 お兄ちゃんはそう言って背中を向けた。


 私は痛い胸を押さえながら、お兄ちゃんに思い切って言うことを決めた。


 こんな時に言うのは反則かもしれないけど……。


「あのね、お兄ちゃん」


「なんだ?」


「私、一年しか生きられないんだって」


「医者にそう言われたのか?」


「ううん。神様に言われたの」


「何をバカなことを言ってるんだ。お前はいたって健康な人間だ。神様だかなんだか知らないが、そんな話を信じるんじゃない」


「そうだよね……こんな話、信じられないよね」


「ほら、ご飯ができたぞ。運ぶのを手伝ってくれ」


「うん」


「お兄ちゃん、ひとつ聞いていい?」


「なんだ?」


「どうしてお兄ちゃんが、柊征しゅうゆさんの万年筆を持ってるの?」


「……え?」


 私はお兄ちゃんのエプロンのポケットからチラリと見えた万年筆を取り上げると、お兄ちゃんに見えるように持ち上げた。




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