四
「それじゃあ、お先に失礼しまーす」
白金サービスの肉体労働担当
一方、アラフォーの白金は今日は事務仕事しかしていないというのに頭痛がしていた。おそらく、というよりも明らかにここ最近の睡眠不足が原因だ。
田中の若さを内心羨みながらも白金は「ああ」と返事をした。
ところが、田中はすぐには事務所を出ようとはしなかった。田中は塚本に近づき、彼女の肩を軽く叩いた。
塚本の身体がビクリと揺れる。塚本のデスク周りはすでに片付けられていた。どうやら塚本も帰る準備を終えていたらしい。
塚本は通勤鞄のハンドルを弄りながら何か言いたげに白金のことをちらちらと見ている。
白金はさりげなく視線を逸らした。
田中が塚本の耳元で何かを囁く。
塚本は硬い顔でちらりと白金を見た後、もう一度田中の顔を見上げコクリと頷いた。緊張した面持ちで白金に声をかける。
「所長」
「おう。どうした?」
「あのっその……っあ……や、いえ、何でも、ありません。お先に、失礼します」
「ああ、二人とも気をつけて帰れよ」
「はい」「はーい」
塚本はコクリと頷き、背を向ける。田中もその後に続いた。扉を閉める間際、田中は白金に向かってウインクをして出て行った。
思わず白金は苦笑する。
――――健二、すまんな。
今度、焼肉でも連れて行ってやろう。
塚本からの視線に気づいてはいるが、白金としてはこれから先も塚本の気持ちに応える気は無いし、余計な波風を立たせたくない……というのが本音だ。
何より、塚本自身まだ己の深層に気づいていない。塚本が動いてしまえば、白金は否応なしにそのことについて指摘しなければならなくなる。それは、できれば避けたい。
そんな白金の意をくんでいるのか田中はいつもさりげなくフォローをしてくれる。
一見、田中はお気楽で何も考えていない体力馬鹿に見えるが実際は違う。人一倍機微に聡い人間だ。生得のものもあるだろうが、それ以上に彼のハードな生い立ちが関係しているのだろう。
田中は同情で雇ってもらえたと思っているようだが、そんな事実はない。単純に田中の能力を評価して雇っただけだ。田中が使えないヤツだったら雇いはしなかった。まあ、白金の役に立てるようにと日夜トレーニングに励んでいる田中にわざわざ言うつもりは無いが。
二人が帰ると一気に事務所内は静かになった。白金が打つキーボードのタイピング音だけが響いている。
どれくらい時間が経ったのだろうか。外はすでに真っ暗になっている。
不意に、ソレは訪れた。LED照明がチカチカし始め、パソコンの電源が落ちた。
――――上書き保存をこまめにしていて正解だったな。
白金はキーボードから指を離し、溜息を吐いて、背中を背もたれに預けた。
その反応を霊は都合よく受け取ったらしい。嬉しそうにラップ音を鳴らし、カタカタと物を揺らし始めた。
白金はさっと立ち上がる。
前もって事務所内にあった重要な物は別倉庫に移動してある。――――いくらでも暴れればいい。
デスクの上のペン立てが浮かび上がり、白金目がけて飛ぶ。それを白金は難なく避けた。
避けられたのが気にくわなかったのか。次々に物が飛び交い始め、速さも量も増していく。
白金は軽く舌打ちをするとスマホを取り出した。
素早く黒井に電話をかける。
「もしもし?」
すぐにスマホから黒井の声が聞こえてきた。
白金が口を開こうとした瞬間、バンッ!と事務所の扉が勢いよく開いた。
白金が目を向けるのと同時に、誰かが白金に向かって襲いかかる。
白金は咄嗟に避けようとしたが避けきれず、微かに腕を掠め、スマホが手から滑り落ちた。
「ちっ」
思わず舌打ちが出る。
怪我は無いが腕がビリビリと痺れている。相手はなかなかのパワーの持ち主だ。
それもそのはず――――「健二。お前帰ったんじゃなかったのかよ」
完全に乗っ取られているらしく田中の目は虚ろだ。いつも笑顔の田中しか見ていないからか、無表情の田中はまるで別人に見える。殺意のようなものも感じ取れた。
――――まさか、健二の身体を使って本気で
現役時代ならともかくすっかり平和な日常に慣れてしまった身体に、疲労困憊の現状では田中を相手にするのはキツい。白金の背中に嫌な汗が流れた。
助けを呼びたくても、スマホは田中の後ろに転がっている。
白金は眉根を寄せ、田中を睨みつけた。
「一発殴れば正気に戻るか?」
力技だが、黒井はソレっぽいことをやっていた。もしかしたら自分にもできるかもしれない。
ダメ元で白金は拳に力を入れた。ピクリと田中の身体が揺れる。
勢いよく田中の懐に入ろうとした。が、田中は身体を後ろに引いてかわす。
それどころか反撃に出た。
顔だけを傾け、田中の拳をかわす。風圧で微かな痛みが頬に生じる。白金は片目を細め、今度は己の腕を振り上げた。
その攻撃を田中は間一髪で避け、攻撃に転じる。何度も攻守が入れ替わる。
「白金さん!」
名前を呼ばれた瞬間、白金は攻撃……ではなく田中を拘束する為に動いた。
反撃しようとした田中は不意をくらい、腕を取られ、後ろに捩じられる。
そして、次の瞬間、ぱぁああああんという乾いた音が響いた。
ガクッ、と田中の頭が落ち、全身から力も抜ける。白金が慌てて支えた。
手を振りぬいた状態の黒井と目が合う。黒井は白金に一つ頷くとすぐに次の行動に移った。
空中に向かって手を伸ばす。そして、ナニカを掴むと激しく振り始めた。
無表情で何かを呟いている。何を言っているのかも、何をしているのかもよくわからないのだが、白金は何となく見てはいけないような気がして視線を逸らした。
「よっ、と」
足腰に力を入れて、田中を抱え上げて休憩用に置いてあるソファーに移動させる。百八十八センチある白金だが、田中も百七十九センチはあるのでなかなか重い。田中の顔を覗き込めば、頬にはくっきりと手形が残っていた。田中の規則的な呼吸音が聞こえてくる。
白金はホッと息を吐いた。
「確かその人は……田中さんでしたか。大丈夫ですか?」
背後から声をかけられ、白金は驚いて振り向く。
「あ、ああ。特に問題はなさそうだ。すぐに意識を取り戻すだろう」
――――気配を全く感じなかった。
内心警戒しながら白金は素知らぬ顔で立ち上がった。黒井は気にした様子はなく「そうですか」と頷く。
そして、おもむろに片腕を上げ言った。
「それでは、私はとりあえずこの方と話してみますね?」
「ああ」
白金には見えないが、そこに霊がいるのだろう。
あの持ち方から想像するに、今霊は黒井に首根っこを掴まれている状態ではないだろうか。
少し離れたところで、黒井は手を放し、床を指さしてなにやら言っている。
まるで説教しているような黒井の背中を白金は黙って興味深げに見ていた。
トントンと肩を叩かれる。顔を向ければ田中が身体を起こして、頬を押さえ困惑した顔で座っていた。
「あの……いったい何がどうなってるんですか?」
「あー……詳しくは後で話すから待ってろ」
「はい」
一度は素直に頷いた田中だが、しばらくぼんやりとした様子で事務所内を見回した後、黒井をじっと見つめ、白金に視線を向けた。
「一つだけ……先に確認してもいいですか?」
「なんだ?」
「あの方は白金さんの恋人ですか?」
「いや、違う」
「そうですか……」
田中はそれだけ確認すると口を閉じ、再び黒井に視線を移す。その横顔は残念そうにもホッとしたようにも見えた。
白金も田中から視線を逸らすと黙って黒井と霊の対話が終わるのを待った。
ようやく話は終わったようだ。
黒井が立ち上がり、くるりと振り向いた。
その顔はどこか疲れているようにも見える。
大丈夫かと声をかけようとしたが、それよりも先に黒井が口を開いた。
「白金さん。正直に答えて欲しいんですけど……現在お付き合いしている相手はいますか?」
「いや。ここ数年そんな相手はいない」
「では、身体だけや一夜限りのお相手は?」
まさか黒井の口からそんな言葉がでるとは思わず、一瞬言葉を失うがすぐに首を横に振る。
「それもない」
「そう、ですよね」
黒井はうんうんと頷いた後、後ろを振り返ってまたナニカと話し始めた。隣の田中からものすごく視線を感じるが、あえてスルーをする。巻き込んでしまった田中に今更隠すつもりは無いが、今説明を始めると長くなりそうなので我慢してもらう。
今度こそ話はついたのか、黒井は応接室を示して言った。
「詳しい話はあちらでしましょう。ここは
彼と言われ、田中が自分を指さしたが黒井は首を横に振る。彼とは霊のことなのだろう。
白金は田中にもついて来るように言った。もう大丈夫だとは思うが、また乗っ取られても面倒なので一応。
白金と黒井が向かい合わせで座ると、田中は少し離れた場所に座りスマホを弄り始めた。田中お得意の『俺は聞いていないので二人で話を進めてください』のパフォーマンスだ。
黒井がちらりと田中を見た後、白金を見る。白金が頷くのを確認し、黒井はおもむろに口を開いた。
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