三
黒井に霊を追い払ってもらってから白金の日常は元に戻った。
――――本当に霊が憑いていたのか。
と、ようやく実感する。言っちゃ悪いが……正直、半信半疑だったのだ。
今も昔も、白金が幽霊を見たことは一度もない。別にそれでかまわないのだが、一度不思議な体験をした身としては多少気にはなる。――――もしかしたら、見えていないだけで今もそこらへんに霊がいるのかもしれない。
ふとした瞬間にそんなことを考えるようになった。
まあ、ちょっとした好奇心というやつだ。
ただし、そんな余裕があったのは日常を取り戻してから三日目までだった。
――――そういえば、黒井さんが言っていた。『また戻ってくると思います』と。
黒井の予言通り、どうやら霊は白金の元に戻ってきたらしい。戻ってこないでいいのに。
しかも、己の存在がバレてしまったからか、堂々とポルターガイストを起こすようになった。
毎晩鳴るラップ音。室内に置いてある食器や色んな物が音を立て、飛びかい、壊れる。銃弾避けが得意な白金からすれば飛んでくる食器を避けることは容易いが、後処理が面倒だ。
それでも、白金が住んでいるマンションの防音設備は完璧だったことは幸いだった。近所からのクレームが入る心配は無い。
危険物は簡単に取り出せないところに鍵をかけてしまっているし、
ただ、心身の疲労は蓄積されていく。ポルターガイストのせいでまとまった睡眠時間が確保できないのが何よりも辛かった。さすがの白金も日に日にやつれていく。
一度、「いい加減にしろ!」とどすの聞いた声で叫んだことがある。
その瞬間だけは、ピタリと止まったが……次の瞬間白金の怒りを煽るかのようにポルターガイストが激しくなった。
その一件があって、白金は何が起きても無反応を貫くことにしたのだ。どんなに激しくラップ音が鳴っても、食器が割れても、素知らぬ顔で対処する。
霊からしてみれば面白くない反応だったのだろう。ポルターガイストは起きなくなった。
――――やっと、飽きたか。
そう判断した白金を嘲笑うかのように、今度は人間に乗り移って白金を襲いにくるようになった。
さすがに何の関係もない一般人相手に白金も手は出せない。
怪我をさせないように防衛に徹し、気絶させることしかできなかった。
しかも、正気に戻った相手は乗り移られていた間のことを全く覚えていないのだ。
そのたびにそれっぽい言い訳をしなければならないのも地味に面倒だった。
白金の精神状態は限界に近づいていた。苛立ちと疲労感は解消されることなく蓄積され続けている。
「黒井さんにもう一度払ってもらうしかない、か」
それ以外、解決策は浮かばなかった。
とにかく今すぐこの質の悪い霊を追い払ってもらい、霊が離れている間に完全にこの悪霊を消す方法を見つけ出す。
解決するまでの間、仕事は社員に任せよう。
そう決めて、パソコンの電源を切ると、真っ黒な液晶に犯罪者のような人相の男が映った。
「酷い顔だ」
寝不足のせいでろくに頭も回っていない。
どちらにしろ、これでは仕事にならないと溜息を吐いた。
さっそく会社に電話を入れる。
出たのは事務担当の
しばらく休むことを告げ、電話を切る。何か言いたそうにしていたが、話を聞く余裕はなかった。
次に黒井に電話をかける。
黒井とはあの日連絡先を交換していた。黒井からの提案だった。きっと、こうなることを想定していたのだろう。
――――連絡先を交換しておいて本当によかった。
黒井はスリーコール以内に電話に出てくれた。『電話が繋がった』という事実だけで安堵した。
「もしもし、白金さん?」
「……」
安心したせいか、言葉がでてこない。そんな自分に驚いた。
思っていた以上に自分は追い詰められていたようだ。
白金の現状を理解しているかのように、黒井の声のトーンが低くなり真剣みを帯びる。
「今、どこにいるんですか?」
その一言に、白金は我に返った。
「……あ、いや、今は自宅だが」
「自宅にお邪魔すればいいですか?」
「あー……いや、今からマップを送る。そこにきてくれるか?」
スマホでマップを共有すると、黒井はすぐに確認してくれたようだ。
「……白金サービス、ですか?」
「ああ。そこの二階が事務所になっている。そこにきてほしい」
「わかりました。今から向かいます。三十分くらいはかかると」
「わかった。忙しいところすまないな」
「いえ。では、また後で」
通話はそこで終わった。
自宅から近い場所に白金の職場、『
本来、頼む側の白金が黒井の都合に合わせて会いに行くべきだとはわかっているが、いつ霊が動き出すかわからない。その不安が白金にはあった。
道中に他人を巻き込むのは避けたいので、人が少ないところ。でも、自宅に招くのは避けたい。
考えた結果、思い浮かんだのが事務所だったのだ。
白金サービスは二階建てになっていて、一階が車庫兼倉庫、二階が事務所になっている。
社員は白金をいれてもたったの三名。事務担当が一人と肉体労働担当が一人。どちらも白金よりもかなり若い。二人とも白金とは入社前からの知り合いだ。
『
その点、二人は白金にとって信用に値する人物であり、同時に二人も白金のことを信頼していた。
どうしても人手が足りない時は、佐久間や他の人脈を使う。まあ、そうして白金サービスは何とか成り立っているのである。
白金が事務所のドアを開けると、塚本と目があった。黒髪ボブに眼鏡。化粧っ気は少なく、百五十四センチと小柄な彼女は一見すると学生のように見えるが、れっきとした成人女性だ。
眼鏡の奥にある瞳が丸くなり、塚本はコテンと首を傾げた。
「あれ? 所長。今日は休みだったんじゃないんですか?」
「いや、ちょっと急用が入ってな。今から俺を尋ねて人がくるから、きたら応接室へ通してくれ」
そう言って先に応接室に入る。
白金はソファーに座り、目を閉じた。
今から黒井がくるとわかっているのか、霊は大人しくしているようだ。
――――そのままずっと大人しくしていてくれ。
いつのまにか、白金は寝ていたらしい。
ふと目が覚めると、目の前のソファーに日本人形が腰掛け、本を読んでいた。
その様子をぼーっと眺めていると、ふと日本人形と目が合った。ドキリ、とする。
「起きました?」
「……あ、ああ。俺が呼び出したのに悪いな」
「いえ。随分、我慢していたみたいですね」
黒井がじっと白金の顔を見つめる。酷い顔をしている自覚はある。
昔ならこれくらい平気だったんだがな、と自分の衰えを感じて視線をそらした。
気持ちを切り替え、黒井に尋ねる。
「今もヤツは憑いているか?」
黒井は白金の周りと部屋の中を見回してから口を開いた。
「いえ。私に気づいて逃げたのか、今は白金さんから離れているみたいですね」
「そうか」
白金はホッとした後、ここ最近の出来事について話した。
「できれば除霊してしまいたいんだが、何かいい方法はないだろうか。金ならいくらでもだす。その、君に除霊が無理なら他に信頼出来る人を紹介してくれてもいい」
失礼な物言いかもしれないが、それだけ余裕がないのだ。
黒井もそれをわかっているのか、不快な顔はしなかった。むしろ申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません。私にはそういう知り合いはいないんです」
「そう、か……」
なんだか触れてはいけない話題に触れた気がして口を閉ざす。
「ですが、……一つ試してみたい方法はあります」
「どんな方法だ?」
「白金さんに憑いている霊の心残りをなくして成仏してもらう方法です」
「それは……俺に死ねということか?」
「まさか。そうではなく、彼と一度話してみて
「そんなことができるのか?」
「私は霊と話すこともできますから。試してみる価値はあると思います」
「なら、頼む」
白金にはどうしようもない。他の方法を探す余裕もない。黒井を信頼して、任せるしかない。
白金が頭を下げれば、黒井は微笑み頷いた。
自分よりも一回り以上離れているはずなのに、その凛とした姿は頼もしく思えた。
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