第4話

 お爺ちゃんが身を捩り、四つん這いになって逃げようとする。熊は無情にも、その足に噛みついた。

 抵抗虚しく、ズル、ズル、とお爺ちゃんは引きずられていく。最後に渾身の力で敷居に取り付いたが、意味なんてない。後に残ったのは剥がれた爪と、赤い筋だけだった。


 僕の両目からは、知らぬ間に涙がこぼれ落ちていた。逃げなきゃ。そう思うのに、体が動かない。

 同じように呆然と座り込んだままだったお父さんが、僕の後ろを見てハッと我に返った。そこにいたのは、両手で口を押さえ、目を赤く泣き腫らしたお母さんだった。

「……逃げよう。車だ。車に乗ろう」

 お父さんはそんなお母さんを見て、「俺がしっかりしなければ」と思ったのだろう。声が震えないよう慎重に絞り出し、僕とお母さんを外へと促した。


 ガフッ、ガフッ。

 荒い鼻息と、水っぽい音。思わず視線を向けると、地面に引き倒されているお爺ちゃんと目が合った

 お爺ちゃんは生きていた。生きたまま衣服を剥ぎ取られ、体幹に鼻を突っ込まれていた。陰部から太股は齧り取られて既に無い。

 それでもお爺ちゃんは口を開きかけ、しかし、それをやめた。

「助けてくれ」

 そう言おうとしたに違いない。でも、引き受けてくれたのだ。もう助からない体を、熊の足止めに使うことを。


 僕達はやっとの思いで車にたどり着き、中に乗り込んだ。扉を閉める音が大きく響く。

「早く、早く……」

 後部座席でお母さんが懇願するようにそればかりを繰り返した。しかしお父さんは手が震え、なかなかエンジンをかけることが出来ない。

 ドンッと車が揺れて、車内が悲鳴に染まった。

 追いついた熊がボンネットに飛び乗り、運転席に向かって滅茶苦茶に噛みつこうとし始めたのだ。牙がぶつかるたびに、窓ガラスが赤く塗り潰されていく。

 半狂乱になったお母さんが、僕の手を引いて車を飛び出した。窓を破られることに恐怖したお父さんも、発作的に後に続く。


 最悪の選択だった。

 熊は逃げるものを追う習性がある。背を向けて走るのは「襲ってください」と言っているのと同じだった。

 しかも、熊の走る速度は時速四十キロをこえる。人間の足で逃げられるはずなどなかったのだ。


 でも、だったら、最良の選択とは何だったのか。

 僕には今でも答えがわからない。

 だって、熊は僕達が逃げる前から、執拗に襲いかかってきていたのだから。


 死に物狂いで走る僕とお母さんを、全速力のお父さんが追い越していった。

 ショックではなかった。必死に走っていたから、一番足の速いお父さんが僕達を抜かした。ただそれだけのことだった。

 実際、お父さんは僕達を囮にしようとか、自分だけ助かろうとか考えたわけではなかったと思う。流涎りゅうぜんしながら追ってくる熊は、そのくらいすぐ背後にまで迫っていた。

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