第5話
そんなどうしても熊に追いつかれてしまう状況での、助かりたい一心での行動だったのだろう。
ちょうどそこには、おっきい木があった。お父さんはそれに一直線に向かうと飛びつき、あっという間に登り詰めた。
直後、僕達の横を黒い風が吹き抜ける。
遅れて唾液の礫が飛んでくる。
おとうさん!
僕は心の中で絶叫した。きっと、お母さんも。そうしながら、僕達は速度を緩めないままおっきい木を通り過ぎた。
後ろ足で立ち上がった黒い影が、この世のものとは思えないスピードで垂直に木を登っていく。
背後でお父さんの叫び声が聞こえた。
それが、不意に途切れる。
僕の全身が、ヒュッと凍りついた。
一番近くの民家まで、まだ何メートルもある。逃げ込めるわけがない。逃げ込めたところで、助かる気もしない。でも、走るしかない。
なのに。あっと思った時には、僕は転んでしまっていた。繋いでいた手が離れ、振り返ったお母さんが何か叫ぶ。
虚ろにそれを見上げながら、僕は観念した。もう助からない。怖いのは終わり。良かった、って。
駆け戻ってきたお母さんが覆い被さる。胸に掻き抱かれて、真っ暗な視界の中、お母さんの匂いでいっぱいになった。
柔らかく包まれる向こう側から、一回、二回と止むことのない衝撃が伝わってくる。お母さんの頭を介して、背中を介して。殴られ、裂かれ、砕かれ、穿たれ、抉られ、千切られ、奪われるのが、振動となって僕に届く。
それらに混じって、パンパンッという乾いた音が聞こえた気がした。
と、唐突に。ドンッと殊更大きな衝撃があって、気づけば僕はお母さんに抱き締められたまま宙を飛んでいた。
お母さん越しに地面に叩きつけられる。
近くから、またしてもドンッという音が聞こえた。
朦朧としつつ薄目を開けると、前方が何ヵ所か大きくヘコんだパトカーが見えた。その傍には黒いケダモノが転がっている。
パトカーのドアが開き、警官が降りてくる。何か言いながら近づいてくる。目蓋がゆるゆると落ちる。
徐々に視界が狭くなり、僕は意識を手放した。
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