闘技場
カザンの闘技場には、大勢の観客が詰めかけていた。試合の開始を、うずうずした顔で待ち構えている。
この施設には、周囲を木の柵で囲まれた円形のリングが設置されている。リング内で行われている選手たちの闘いを、ショーとして観客に見せるのだ。
平和で豊かなカーマの都では、底辺に生きる闘士たちの命懸けの闘いを、ワイングラス片手に眺める……それこそが、上級国民の楽しみのひとつとなっている。もちろん、下級国民でも金さえ出せば観戦は可能だ。
しかも、今日の盛り上がりは凄まじい。これから、闘技場でもトップクラスの人気を誇る闘士の試合が始まるのだ。
リングに、ふたりの闘士が入ってきた。
途端に、あちこちから黄色い声援が飛んできた。その声量たるや、戦争と同レベルである。
やがて、白いシャツを着た男が進み出て来た。闘技場の試合進行を仕切る司会者である。
司会者は中央に進み出ると、ぱっと両手を上げる。
直後、声援が一斉に止んだ。沈黙が、場内を支配する。
少しの間を置き、司会者が口を開いた。
「それでは、本日のメインイベント!」
場内に響き渡る声だ。直後、司会者は片方の闘士を指差す。
「顔の悪さは、性格の悪さを表しているのか。この男、顔の悪さはぶっちぎりのナンバー1。性格の悪さも、ブリバリ最悪ナンバー1。ルール無用の極悪ファイター、ジョニー・メリック!」
観客に向かい、大きな声で叫んだ。
コールされたジョニーは顔を上げ、観客たちをゆっくりと見回す。途端に、罵声が飛んできた。
「ブサイク! さっさと負けちまえ!」
「気色悪い面だねえ! いっそ首もがれちまえば! その方がまだ見れるよ!」
「キモいんだよ!」
この罵声は全て、女性が発しているものだ。ジョニーに向けられる目は、憎悪と侮蔑と嫌悪の感情に満ちている。
だがジョニーの顔には、感情らしきものは全く浮かんでいない。こめかみから頬にかけて、稲妻のような形の入れ墨が入っている。癖の強い髪は黒く、肌は黄味がかった色だ。
上半身には何も身につけておらず、しなやかな筋肉に覆われた肉体を晒している。もっとも、その見事な体のあちこちにあるケロイド状の傷痕も晒すことになっていた。
当然ながら、御婦人たちの罵詈雑言の中には、火傷に関するものもある。彼女たちがジョニーをこき下ろす様は、いつも男たちから受けている仕打ちへの復讐のようであった。
やがて、司会者が片手をあげた。すると、ジョニーへのブーイングはピタッと収まる。
司会者は観客たちを見回し、もうひとりの男を手で指し示す。
「天は二物を、この若者に与えた。ここカザン闘技場の超新星ファイターであり、また最高の美貌の持ち主……神に選ばれし美し過ぎる天才ファイター・アドニス!」
同時に、凄まじい声援が巻き起こる。その大半が女性からのものだ。
それも当然だろう。アドニスは、ジョニーとは完全に真逆のタイプである。肌は白く、顔は彫刻のように美しく整っている。金色の髪は日の光で煌めき、肉体は筋肉質で無駄な脂肪は付いていない。
今日のカザン闘技場には、身分の高い貴族の婦人から売春宿の下働きをしている下女に至るまで、様々な身分の女が観に来ている。彼女らのお目当ては、言うまでもなくアドニスだ。皆、うっとりとした視線を送っている。
そのアドニスは、爽やかな笑顔を浮かべてジョニーに近づいていく。ごく自然な態度で、すっと右手を差し出してきた。握手を求めているのだ。
だが、ジョニーは差し出された手をはたいた。直後、大振りのパンチを放つ──
パンチを受け、アドニスは顔を覆いダウンした。同時に、ブーイングの声がジョニーを襲う。
「ちょっと! 卑怯じゃない!」
「レフェリー! どこ見てんのよ!」
もっとも、女たちからの罵声も、ジョニーには何ら影響を与えていない。続いては、足を大きく振り上げての蹴りだ。アドニスは、呻き声をあげビクリと体を震わせた。
観客席の女たちは、黄色い悲鳴をあげる。だが、ジョニーはお構い無しだ。楽しそうに、笑いながら蹴りまくった。
頃合いを見計らい、アドニスの腕を掴み立ち上がらせる。この美闘士は、もはや息も絶え絶え……という表情だ。
ジョニーは、そんなアドニスの頭に両腕を回し締め上げる。いわゆるヘッドロックの体勢だ。
その時、アドニスが動く。両腕をジョニーの腰に回した。両手を、きっちりとロックする。
次の瞬間、思い切り後方へと投げる。それまで一方的に攻めていたジョニーは、後頭部と後背部を地面に叩きつけられた。
豪快なバックドロップが決まり、ジョニーは倒れたまま動かない。と、先ほどの司会者が近づいてきた。しゃがみこむと、ジョニーの顔を心配そうに見る。しかし、反応はない。
司会者は立ち上がると、アドニスの片手を掴み上にあげながら叫んだ。
「ジョニーの意識がありません! したがって試合続行不能につき、アドニスの勝利です!」
同時に、割れんばかりの歓声が沸き起こる。勝者アドニスに向けたものだ。
アドニスは、爽やかな笑顔で声援に応える。だが、直後に片足を振り上げた。
何を思ったか、その足裏を思い切り落としていく。真下にあるのは、ジョニーの顔だ──
そのままなら、ジョニーの顔は踏み付けられていただろう。鼻骨や前歯が砕けていたかもしれない。だが、彼の顔はすっと動いた。意識を失っていたはずのジョニーは、目をつぶったまま踏みつけを
ところが、アドニスは動きを止めなかった。今度は、ジョニーの腹を踏みつける。勝ち誇った表情で、両手をあげ観客に勝利のパフォーマンスをしている。
ジョニーは微動だにせず、目をつぶったまま惨めな敗者として横たわっていた。
観客のほとんどがアドニスの勝利を讃えている中、無言で闘技場を見ている奇妙なふたり組がいた。
片方は、髪の薄くなった中年男だ。中肉中背の体格で、とぼけた顔立ちである。革の服を着て頑丈そうなリュックを背負い、腰には短めの剣をぶら下げていた。
そんな中年男が、隣にいる者に話しかける。
「今回雇うのは、あの負けた方だ。怖い顔だが、大丈夫か?」
すると、連れはこくんと頷いた。背は小さく、中年男の腰までしかない。マントで顔まで覆っているが、恐らく子供だろう。
「よし、後で話をしに行こう」
中年男の言葉に、子供はまた頷いた。
しばらくして、ジョニーは闘士専用の控室に戻る。
周囲には、数人の闘士たちがいた。持参した食べ物を口に入れたり、服を着替えたり、傷の手当てを受けたりしている。
そんな中、ジョニーに近づいてきた男がいた。チョビ髭で小太りの男だ。後ろにはアドニスもいる。
「やあ、ご苦労さん。今日も、見事なやられっぷりだったよ。はい、これ」
言った後、チョビ髭は金貨を一枚差し出してきた。
ジョニーは、無言のまま引ったくるように受け取った。ポケットに入れると、アドニスを睨みつける。
「おい、最後の踏みつけは台本に無かったはずだ。どういうことだよ?」
低い声で尋ねると、アドニスはくすりと笑った。
「いやあ、客の盛り上がりが凄くてさ、ちょっとアドリブ入れちゃった。まあ、いいじゃん。君は頑丈だから、ダメージないでしょう。それにしても、目をつぶってんのに躱すなんて凄いね」
余裕の表情で答える。悪いことをした、という意識は感じられない。
その瞬間、ジョニーは動いた。すっと間合いを詰め、腹に拳を振るう──
「うぐうぅ!」
吐き出すような声をあげ、アドニスは膝を着いた。腹を押さえ、その場で倒れ込む。先ほどは、闘技場にて天才として称えられていた闘士が、たった一撃で倒れてしまったのだ。
一方、ジョニーは冷酷な目で見下ろしている。
「俺の師匠は言ってたよ。目を閉じれば、世界は闇に覆われる。だが、より鮮明に見えてくるものもある……ってな。まあ、お前みたいなバカじゃ理解できねえだろうけどよ」
言い放ち、控室を出ようと歩き出す。だが、彼の前に立ちはだかる者がいた。
「クソガキ、てめえ何やってんだ? アドニスはな、てめえと違って客を呼べるんだよ。多少のことは我慢しろ」
言ったのは、金色の髪を肩まで伸ばした大きな男だ。ジョニーよりも背は高く、筋肉量も多い。威嚇するような表情で見下ろしている。
だが、ジョニーに怯む気配はない。大男を睨み返した。
「だから何だよ? 俺はな、台本通りにやられるのが仕事だ。けどな、台本にない動きされると困るんだよ」
言った直後、腕をぶんと振った。その動きはあまりにも速く自然で、何をしたのか誰にも見えていなかった。
次の瞬間、大男の眉間がぱっくり開く。一瞬遅れて、血が流れ出した──
言うまでもなく、この傷を作ったのはジョニーである。彼は今、高速の肘打ちを放ったのだ。鍛え抜かれた肘打ちは、刃物のように相手を切り裂く武器となる。
今も、大男の眉間を一瞬で切り裂いたのだ。
垂れてくる血液を見て、大男は自身の出血にようやく気づいた。慌てて傷口を押さえる。
一方、ジョニーは涼しい顔で口を開いた。
「どけよ。でないと、明日の試合は傷だらけの面でタイトルマッチやることになるぜ。カザン最強のチャンピオンさんよう」
その言葉に、大男は慌てて道を空ける。
ジョニーはというと、大男のことなど見ようともしていない。大股で出て行った。
闘技場を出たジョニーは、いったん足を止めた。舌打ちをしつつ、ポケットの金貨を確かめる。
この金貨一枚を稼ぐには、普通の仕事なら十日から二週間は働く必要がある。しかし、やられ役の闘士なら一試合で稼げる。割は悪くない。あのアドニスは、一試合で自分の十倍近い金額を稼ぎ出すことさえ忘れていられれば、だが……。
まあ、いい。さっさと隊の宿舎に戻ろう。ジョニーは再び歩き出す。
その時、何者かが近づいて来る気配を感じた。振り返ると、髪がかなり薄い中年男が近づいて来る。軽薄そうな顔で、へらへら笑いながら歩いて来る。
男の傍らには、小さな子供がいる。そちらはマントで全身を覆っており、フードを頭からすっぽり被っていた。隙間から目だけが出ている。
ジョニーは立ち止まり、じろりと睨みつけた。こんな男に見覚えはない。いったい何者だろう。
すると、ふたりはピタッと足を止めた。続いて、中年男がぺこりとお辞儀をする。
「あんた、十三隊のジョニーさんだろ」
続いて放たれた言葉に、ジョニーの表情が少し和らいだ。
「そうだ。ウチに何か用か? 仕事でもくれんのか?」
冗談のつもりで吐いたセリフだ。正直、目の前の男が隊に仕事をくれるとは思えない。
そう、ジョニーが所属する傭兵の第十三隊は……傭兵ギルドの中でも、筋金入りの問題児が揃っている。何せ、見た目からして普通ではない。顔に入れ墨、体には火傷というジョニーですら、まだマシな部類なのである。大抵の人間が、隊の者たちの顔を見るや、血相を変えて退散してしまうのだ。仕事をくれる者など、ほとんどいない。
やがて、誰が呼んだか『
そんな状態の十三隊に、頭の禿げ上がった軽薄そうな中年男が仕事をくれるわけがない。
だが次の瞬間、予想もしなかった展開になる──
「そう、あんたらに仕事を頼みたいんだ。礼金は弾むぜ」
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