それは美。それは、芸術。

林檎

 珈琲を零した。白い制服に、茶色が芳ばしく染みを残す。どんなに好きな香りも、香る場所によっては不快感が募るものらしい。体を動かすたび、珈琲が媚び、芳醇に舞う。とても、それが憎たらしい。どうせ、洗ってしまえば消えるものを。


 そう、洗ってしまえば、呆気なく消える程度の薄い香。ならばいっそ、限界まで楽しませてもらおう。わたしは、珈琲を零した。全く、可哀想な。わたしに買われなければ、望みのままに人間の喉を通れたものを。いや、間違い。わたしに買われたから、これは呑まれるだけの生を免れたのだ。わたしが、わたしという人間が、人の嗜好に媚びるだけの彼らを救ったのだ。


 わたしは、珈琲を零した。純粋な笑みを湛えた真白の画布に、茶色の染みを。お前は、もう嗜好品ではない。絵画の一部となるのだ。西洋美術のモチーフたる、深紅の林檎。屈辱か、名誉か。呑まれるものとして人に望まれ、生まれたお前は、こんな運命を望んではいないのだろうが。わたしには、林檎をかたどるお前が新たなる生への希望によろこんでいるように思える。だから、わたしはお前の上から油性絵具を置く。薄い茶色に溶け込む、粘度の高い赤と緑。死んだような純白に、瑞々しい果実の、命の顕現。


 アダムとイヴもあえて手を伸ばさぬような、異彩を放つ邪悪な塊。望めば魅力を増す、白雪姫の毒林檎。


 風に吹かれた制服から、彼の祖国ブラジルが漂った。

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