あなたを知るのは私だけ

愛の致死量

「……今日は遅くなりそうだわ。私の夕食は結構よ」

「あぁ。わかったよ。……いってらっしゃい」

「いってきます」


 口先に触れた熱を名残惜しくも送り出す。部長の座につく彼女は、平社員である私と違って多忙だ。せっかく重なった休日も、彼女の優秀さに奪われてしまう。まったくどうして私を選んでくれたのか、そう考えてしまうほど彼女は私と不釣り合い。


 夕飯は結構と言われてしまった。久しぶりの二人きりに浮かれて準備した食材。彼女に勝てる唯一の技術である料理。彼女は私の作る好物を、いつも凛としている顔をほころばせながら頬張るのだ。時間が経ってしまっても、彼女は美味しいと言ってくれる。今日を待っていた鮮度の食材も、愛を込めた作品に成り上がる前に傷んでしまっては、それは何より悲しいことだ。それに。明日では私も仕事だ。彼女の笑顔を想いながら、私は整頓されたキッチンへ立った。


 *


 今頃キッチンに立っているのだろうか。今日のために用意されたものを、私は知っている。そもそも一緒に行った買い物だ。あの子は何も言わないけれど、私の好きな物ばかりカゴに入れていたのは、まさか隠していたつもりなのだろうか。まったく、隠し事が下手だ、あの子は。きっと帰ったら、丁寧に保存された私の好物が待っている。それを思えば、邪魔に入った今日の件も乗り切れる。


 指定の待ち合わせ場所に、既に相手の姿があった。


「申し訳ありません、お待たせしてしまって」

「いえ、私も今来たところですよ」


 上っ面だけの冷めた社交辞令。直前までのタバコの匂いは消えていないというのに。「いこうか」と腰を抱かれ、私は大人しく委ねる。夜の街、胡乱な愛の気配が後を付けてくるような虚ろ。組織同士の約束が蔓延る欲の時間だ。


 男の香ばしさを覆い隠す、噎せ返る程のハーバルノート。隠れて相手の顔を伺うのも、私の最低限でできる最大の接待も。この偽物の愛は、あの子を守るためならいくらでもこなしてみせるから。


 *


「おかえり」

「……、ただいま。まだ起きていたの?」

「うん。今日は直接おかえりを言いたかったんだ」


 驚いたままの彼女に口付ける。


「夕飯、用意しちゃったんだ。材料腐らせたらもったいないでしょ?」

「そうね。──ねぇ、私、お腹がすいたわ」


 今度は彼女が求めるように口付ける。


「温めようか」

「そのままがいい」


 冷めたままの料理を、彼女は穢れを感じさせない上品さで口に運んでゆく。私の大好きな笑顔を浮かべて。彼女は、うっすら残る男性の気配を隠しているつもりなんだろう。深更をまとったあなたの、いつもより強い女の香りを私が不審がらないと思って。


 けど、そのままでいい。汚された彼女を上書きできる人間は、この世で私だけでいい。このまま、知らないままで私に堕ちてこればいいの。あなたはこれからも、私を守っている側でいればいい。あなたの欲しい本物は、嫌って言うほどあげるから。


 だからどうか私の卑しさには、まだ気付かないでいて。

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