神嵐館の連続殺人

高野 豆夫

第一の被害者 (神々島パート)

第1話 島が見えてきたで!

 九月一〇日、午前八時三〇分。


「ウォオオオエエエ」


 朝ごはんを残らず吐き出してしまった。胃が空っぽになってからも、私はしばらく動けなかった。


 酔い止めも飲んだのに。


 昔から船酔いに弱かった。三半規管なんてみんな大差ないだろうに、強い人と弱い人がいるのは不公平だ。


 船べりから乗りだしていた体を戻そうとすると、


のぞちゃん、大丈夫?」


 和泉いずみさとが声をかけてきた。背中を優しくさすってくれる。


 私は吹き出していた汗を袖でぬぐった。それからティッシュを取り出し、口元を丁寧に拭く。


 笑顔を作る余裕もできた。


「ありがとうございます。慣れてますから」


「そっか。大変やね。美里はそういう経験あんまないからなあ」


 それっきり会話が途切れた。


 澄みきった空を眺めてから、周囲に広がる海を見渡す。頬に当たる潮風が気持ちいい。船の背後に目を凝らすと、遠くに三重県の本土が見えた。


 美里も右どなりで黙って景色を眺めている。


——だんだん気まずくなってきた。話のタネを探していると、船室から物音がした。


 美里が振り向いてから、残念そうに言った。


「ああ、マチタニか」


 船室から出てきたその相手は、作り物めいた笑顔を浮かべた。


「マチタニじゃなくてマチですよ」


 訂正してから、町谷英世は空を見上げた。


「いやあ、見事な快晴ですね。海も凪いでいて心地よい。嵐の前の静けさといったところでしょうか」


 美里が答える。


「せやな。もうすぐバカデッカくてめちゃくちゃ強い台風が通過するんやってさ」


 正確には、超大型で猛烈な台風だ。だが美里がそんなことを気にする素振りはない。美里はこぶしを船べりに叩きつけた。


「もろに直撃らしいで。絶対当たる——って美里の経験が言ってる——天気予報で断言してたもん。今日はやばいって。こりゃあ間違いなく来るわ」


「……何があなたの経験ですって? まさか和泉さん、ときしまそら氏の予報のことを言ってるんですか?」


「そうやけど?」


 美里が当然だというような顔をしているのを見て、町谷はため息をついた。


「あのですね、それはあなたの経験則とは言いません。あの人の予測はあなたの経験如何いかんに関係なく、一切外れないんですから」


「うるさいなあ。細かいことはええやん。ほんま関東人は理屈くさいなあ」


 町谷はムッと来たらしく、


「私は関東人ではありません。山梨県民です。混同しないでください」


 と、訛りのない標準語で応じた。山梨県は首都圏には含まれるが関東には含まれない、というのは聞いたことがある。が、美里に理屈は通用しなかった。


「日本なんか、大阪か大阪じゃないかのどっちかや。んなもん関係ない」


 美里にとっては、大阪人以外は関東人らしい。大阪人は得体が知れない。


 二人の掛けあいを聞いていると、頭が痛くなってきた。船酔いも原因かもしれない。


「ごめんなさい。ちょっと、休ませてもらいます」


「あ、こっちこそごめん。望実ちゃん置いてこんな小心者とどうでもいいことしゃべって」


 町谷がすかさず「誰が小心者ですか」と突っかかったが、私は聞かないふりをして船室の方に足を向けた。後ろで美里と町谷がまた小競り合いを始めるのが聞こえ、苦笑した。


 船室は操縦室と居室からなる。前側の操縦室では船長がタバコ片手に舵を取っている。私は後ろ側にある居室のドアを開けた。


 二人掛けの長椅子が二つ並んでいるだけの窮屈な部屋だ。その中に、くろたかまさが一人で座っていた。


 私が入ってきたことに気づいて、彼は慌ててポーチに何かを押し込んだ。スマホか何かだろうか。よく見えなかった。


 それから無遠慮な目でこちらを見てきた。睨んでいるようにも見える。この男のこういうところが苦手だった。


「し、失礼します」


「ああ」


 吐き捨てるように言ってから、黒栖はすぐ視線をそらした。私に興味はないらしい。


 空いている方の長椅子に腰掛けた。


 張り詰めたような空気が流れた。いや、そう感じたのは私だけだったのかもしれない。とにかくこの場から離れたいような、でも動きたくないような、そんな心地がしていた。


 黒栖の方をちらと見ると、相変わらず何を考えているのか分からない顔で虚空を見つめていた。


 どれほど経っただろうか。居室には窓がないので、時間感覚が狂う。そろそろ何か話しかけようかと葛藤していると、ドアが突然開いた。美里が飛び込んできた。


「島が見えてきたで!」


 その後ろからやれやれといった様子で町谷が現れた。


「騒ぐほどのことでもないでしょう。そこに向かって進んでるんですから」


「うるさいわ。いちいち噛みついてくんな」


 ピリピリしてきたので、口を挟んだ。


「島、見たいです」


 美里が顔を輝かせた。


「やんなやんな、望実ちゃんもそう思うよな」


 私に近づいてきて手を取り、ドアの方へ引っ張る。引かれるままに外に出た。その開放感といったらなかった。


 さきの向こうへ目を凝らした。目的地の島が遠くにポツンとたたずんでいた。


 その名はかみがみじま。太平洋に浮かぶ絶海の孤島だ。島の周囲はどこも険しく、崖がそそりたつようになっていた。

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