第8話 なんと担当ホストが父親に謝罪に訪れた
まさ恵おばさん曰く、信子は風邪をひいてから三日目に仕事を放棄し、店長にそのことを咎められても無視したので、退職といった形になった。
まさ恵おばさん曰く
「なんと不幸な女性だろう。しかし、これは他人ごとではない。
信子さんのことを、自分とは別世界の人間であり、対岸の火事だと思っていたら、その火の粉が自分に降りかかってくることもあるのよ」
私は深く共感しうなづいた後で、自分が信子のようになったらどうしようという身の毛のよだつような不安感と恐怖感のおそわれた。
頭の中が真っ白になり、両腕がブルブルと震えるようだった。
私はふと我にかえって、橋野おじさんに言った。
「お嬢さんの担当ホスト、吉崎雄也って言うの?
もしかして今、写ってる山中で女性と拉致監禁されたという」
橋野おじさんは言った。
「そうだよ。またるみ子のように女性をうまくたぶらかしたので、きっと罰が当たったんだよ」
私は答えた。
「そういえば、最近、一千万以上貢いだホストまがいの男を、なんと歌舞伎町の路上で刺したという事件があったばかりね。
まあ、相手のホストまがいは死なずにすんだだけ救いだけどね」
橋野曰く
「こういう場合、殺意があるのとないのとでは罪状が全く変わってくる。
殺意があるなどと言っては殺人未遂ということになるが、殺意は全くないといえば、相手が死んでもたんなる傷害致死、または正当防衛という言い訳も通用するんだ。殺人と正当防衛とでは大変、罪の重さが全く違うからな」
私は思わず
「ほんと、そうですね。でも路上で刺すなんて、その女性はもしかして目立ちたかったんじゃないかな。世間に自分の苦しみを宣伝したかったのかな?
そういえば、四年程前も、ホストを殺した若い女性がいたわね。
好きすぎて殺したなんてわけのわからぬことを言ってたわね」
橋野曰く
「心中しようと思ってたりしてな。
しかし、こういうことをするのは、たいてい二十五歳以下の女性だよな。
もしかしてホストに家庭の暖かさを求めてたりしてな」
「ホストのいい所は、身内と違ってとにかく褒めまくること。
否定的なことは決して言わない。そしてラインをしてもスルーなんてことはなく、すぐ返事がくる。
でもときにはスルーという罰を与え、相手を不安がらせ、次にホストクラブに行ったときは、高いシャンパンを取らせたり、飾りボトルといってなんと三百万もするルイ十三世のボトルを置くようにねだったりすることもあるようよ」
橋野は呆れたように言った。
「ホストのいいところは、強制的に上から目線でボトルを入れなさいなどと言わないわ。もし飾りボトルを入れてくれたら、僕も嬉しいし君もサービスを受けられるよ。こうなれば双方ウィンウィンと自分の意志を伝えてうまく相手を促し、結局は自分の意志に乗せ、相手を自分の言いなりにさせることだな」
私は思わず
「まさに惚れた弱みね。担当ホストに嫌われたくない一心で、相手の言いなりになってしまう。そこから風俗行きという悲劇の第一歩が始まりそうね」
私は目の前の橋野おじさんを絶望させたくない一心で、風俗行きという悲劇というやんわりとした言葉を使ったが、内心は悲劇なんてもんじゃない。
まさ恵おばさんの困った先輩、信子のようにもう身を沈め、取り返しのつかないことに廃人同様という事態に陥ってしまう。
まさに橋野おじさんの娘るみ子が、そのような絶望的な状態になってしまうという事実を、橋野おじさんに伝えることはさすがにためらわれた。
私は「あっ、いけない。今から店の準備をしなきゃ」
心にしこりを残したまま、私は橋野おじさんの行きつけの店「コスモス」を後にした。
橋野おじさんは「僕はいつもここでモーニングサービスをとるんだ。もしよければまた来てよ。るり子ちゃんと話をしていると、落ち着くよ。
これが老い先短い僕の最期のお願いだと思って。
僕はこれから斜陽人生右肩下がり真っ只中だが、るり子ちゃんはまだまだ若いし未来がある。まあ、僕みたいな時代遅れ気味にならないうちに、るみ子ちゃんはこれからの時代で活躍してほしいな」
そう言いながら、橋野は伝票をレジに渡した。
そういえば、ゴスペル喫茶ハレルヤのまさ恵おばさんも、そういったセリフをときおり客に言われていたなあ。
私もまさ恵おばさんと触れ合ってから、まさ恵おばさんの影響を受けているのかな。しかし私はまさ恵おばさんのように、無条件でイエスキリストとやらを信じてはいない。
喫茶コスモスの焙煎珈琲のいい香りをかぎながら、私と橋野おじさんは店を後にして、別々の道を歩み出した。
私は橋野おじさんのはかない背中が気になり、思わず振り返ってしまった。
ここ一週間、橋野おじさんはスナックいこいに顔を見せない。
焼酎のボトルも残ったままだし、電話連絡すらない。
翌日の朝、私は橋野おじさんの紹介で訪れた喫茶コスモスに行ってみた。
焙煎珈琲の香りをかいでいると、なんと橋野おじさんが新聞を読んでいた。
「ホスト被害って、今度国会で審議され、売掛金を廃止するホストクラブもでてきているみたいだ」
私は思わず「それは良い方向に進んでいますね」と言った途端、信じられないことが起った。
一週間前、報道番組で女性と山中で拉致監禁されたという元ホスト吉崎雄也が、目の前に現れたのだ。
「僕は世間をお騒がせした元ホスト吉崎雄也です。
お嬢さんには申し訳ないことをしました」
実をいうと、吉崎雄也は橋野おじさんの娘るみ子さんを、風落ち(風俗に堕とすこと)させた担当ホストに違いない。
しかし水商売らしい艶っぽさは見事に消え、ただのくたびれた二十五歳くらいのホームレスまがいの薄汚れた男にしかみえない。
るみ子さんはこんなさえない男に、金を貢いだ挙句、風俗にまで堕ちたのか。
まあ、立ちんぼにならなかったのが、不幸中の幸いでもあるが。
橋野おじさんは、信じられないといったふうにまじまじと吉崎を見つめた。
「実は、僕はるみ子のことが心配で、君のことは探偵社に頼んで調査済みだったんだよ。しかしとき遅しで、娘のるみ子はもう風俗に勤め始めたあとだったんだ」
吉崎は橋野おじさんに、九十度背中を曲げて深々と頭を下げた。
「今更、こんなことを言える義理ではありません。しかし、あのときは僕も女性客に騙され、借金を背負わされている最中だったんですよ。
それに僕はその二か月前、先輩の客を取ったという嫌疑をかけられ、頭の後頭部に傷を負わされたんですよ。これ、そのときの深い傷です」
そう言いながら吉崎は、頭の後頭部を髪をめくって見せた。
確かに、赤く腫れあがった深い傷が1センチほどあり、完治はしていない。
吉崎は話を続けた。
「僕が先輩の女性客にヘルプでついていたら、その女性客がなんと僕に指名替えをしたいと言い出したんですよね。
現在は指名替えは禁止されていますが、先輩はあっさりと僕に指名替えを認めてくれて励ましの言葉までくれたんです。
「この女性は僕にとっても大切な人。でも人の心は自由だから、僕から君に心が移ったなら仕方がないこと。だから、君はこの女性を大切にして幸せにしてあげてくれ。不幸にすることがあったら、僕はホストとしてよりも、一人の男として承知しないぞ」僕はそのとき、先輩はなんと心の広い、男気のある人だと感心しました。
しかしそれはあくまでも、女性客の前でのきれいごとの演技でしかなかったんですね」
吉崎の表情は、急に恐怖でこわばったかのように見えた。
「その帰り道の明け方、朝日が昇ってきたとき、僕の背後にカチッという音がしたのです。と同時に僕の後頭部にアイスピックが刺さりました。
僕は一瞬声がでなかったが、刺した相手はなんと先ほどの先輩だったんですよ」
私と橋野おじさんは思わず絶句した。
客をとられた悔しさとはいえ、夜中に待ち伏せして、アイスピックで刺すとはまさに傷害以外のなにものでもない。
私は、男の嫉妬の根深さと恐ろしさにゾッとする思いだった。
吉崎は話を聞いてもらってほっとしたのだろうか。
吉崎の表情からはこわばりが消え、ゆるい涙にかわっていた。
「恥を忍んでいいますがね、僕は入店一時間後に、女性客から二十万円の売掛金をだまされたんですよ。
その女性客が店に提示した身分証明証は、ミテコといっていわゆる偽物だったんですよ。だから僕は二十万円を自腹で切ることになってしまったんです」
今度は、私の頬がこわばった。
これがホストクラブの洗礼か。いや、本来の意味での洗礼は、エゴイズムを捨てて、神と共に生きることであるが、皮肉な意味に使われることもある。
吉崎は重荷を背負ったようなつらそうな表情で
「店側はもちろん僕の力になってくれるわけではない。
だって、ホストは個人営業でしかないんですよ。店を借りて営業をし、売上の半分がホストの給料なんですよ。
客を見極めるのも、ホストの責任。どんなベテランホストでも、女性客にだまされて自腹を切ることはしょっちゅうある。
いや、ベテランホストほど大金に目がくらみ、五十万以上の売掛金を背負わされることはザラにあります。
ベテランホストの自虐セリフ「何年ホストやってるんだよ」」
私は漫才調のセリフに思わず吹き出しそうになったが、それはあまりにも不謹慎であり、気の毒な話である。
吉崎は、苦痛に頬を歪めた。
「結局僕はその二十万円の売掛金のために、働くことになったんですよ。
でも僕みたいな平凡な容姿の新人が、そう稼げるわけはない。
だから僕は未成年者にターゲットを絞ることを、思い付いたんですよ。
まあこのことは、僕の孤独体験から生じているのですけどね」
そういえば、私もそしてまさ恵おばさんも、高校時代はあまり友人もなくて、孤独だったという過去を思い出していた。
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