第3話 ホステス特有の社交術

 私は、橋野おじさんの前でしおらしい少女になって、貢がレディーになってやろうと思った。

 これなら詐欺でもないし、売春でもなし、双方楽しむだけなんだから罪がないよね。

 まさ恵おばさんの経営するゴスペルカフェ「ハレルヤ」には、ご無沙汰している最中であるが、私の心のなかでまさ恵おばさんは、生き続けていた。

 まるで交換日記のように、私は自分の言動をまさ恵おばさんに伝えたい気持ちだった。このことは、実態のない私の心のみの交換日記である。

 それだけ、私の良心は、まさ恵おばさんに依存していた。

 まさ恵おばさんの存在は、私の心にある見えない神と同じだった。

 私の心の引き出しからまさ恵おばさんを失ってしまうと、私の心はたちまち、悪魔に占領され、光の見えない真っ黒けの闇の世界になってしまいそうだった。

 それだけ私の良心は、もろいものだったともいえる。


 私は可哀そうな少女を演じることにした。

 しかしその前に、橋野おじさんの経済状態を探っておく必要がある。

 私はさり気なしに、橋野おじさんを褒めることにした。

「橋野さんって、スーツを着ているわけでもなく、ポロシャツ姿の軽装なのにセンスいいですね。ブルーのポロシャツからのぞかせる、渋い紺のハンカチ、さりげないおしゃれですよ」

 橋野はびっくりしたように言った。

「意外だなあ。そんなこと言われたの、初めてだよ。

 実はね、このハンカチのなかにはニトログリセリンが忍ばせてあるんだよ」

 ニトログリセリンというと、心臓の薬であり、発作がでたらこれをのどにスプレーすることで、発作を抑えるしかない。 

 私は意外だった。メタボとまではいかないが、どちらかというと太り気味で、お腹のでた橋野が重度の心臓病だったとは。

 私は深刻な顔をせず、わざとおどけて見せた。

「えっ、意外ですね。健康そのものに見える橋野さんが。ウッソー驚き」

 病気を抱えている人に、病名をだすとかえって深刻になってしまう。

 だいたい町のスナックという場は、日常生活に困難を抱える人の気分転換を提供する場であるのだから、できるだけ深刻にならず、楽天的にふるまうことで客に安心感と一抹の希望を与えることができる。

 私はさっそくニトログリセリンについて、勉強しなければならない。

 共通の話題を見出すことで、来店回数が一回でも多く客をつないでおくことが商売のコツである。

 私たちはホスト同様、いやホストほど多額の金銭目的ではないが、客との関係性を保つプロなんだから。

 このことで、身内以上の心の絆をつなぐことができる。

 たった一度来店した客でも一度絆をつなぐと、客は私を忘れられなくなり、いつしか依存症のように、来店回数が多くなる。

 もちろんホストのように、ライン攻撃をかけるわけでもない。

 私たちホステスは、経済的にも精神的にも家庭の大敵なのだから。

「スナックに通うヒマとお金があるなら、家庭に入れてくれてもいいじゃない。

 それでなくても、値上げラッシュで家計は火の車なんだから」

という奥様方のグチが聞こえてきそうである。

 奥様が旦那のグチを言うと、子供にもそれが伝わるので、旦那は家に居づらくなってしまう。

 そうなってしまうと、私たちホステス及びスナックという場所は、不倫同様、家庭を壊す大敵のような存在になってしまい、目の敵にされかねない。


 ちなみにホストの場合は、母親からにらまれると、母親から売掛金を回収できなくなってしまう。

 できることなら「このホスト君のおかげで、うちの娘は平静を保っていられる」という恩を感じさせると、かえって母親は自分の愛情不足と躾のいたらなさを感じて気弱になり、ホストに恩さえ感じてしまうようになる。

 だからラインの返信内容も、あるときは母親のように、あるときは友達のように、誰に見られてもやましさなど感じさせないように、言葉を選ぶことが必要である。

 例えば「昨日、来店してくれてありがとう。感謝します。でもあまり大金を使っちゃだめだよ。自分の人生を守るのは、最終的には自分しかいない」

「田舎のお母さん、お元気にしてらっしゃる。最低限、母の日のプレゼントはしなきゃだめだよ。生花でなくてもアートフラワーのカーネーションでも感謝の気持ちは伝わるはずだよ」

しかしラインの回数が増え過ぎると、今度は来店してもらえなくなるから、かえって本末転倒。

 ときには、二回ほど既読スルーして、ころ合いを読むことも、ホストの務めであり、既読スルーすると女性客は「私、なにか悪いこと言ったかな? 私って常識外れなのかな」という不安とコンプレックスのグレーの気持ちを抱くようになる。

 ラインを開かず、既読すらもせず、無視スルーすることにより、相手をやきもきさせ、不安感以上の絶望感を抱かせることも必要である。

 そうすると女性客は、再び来店したときは、嫌われたくない一心で、大金を使ってくれる可能性に発展する。

 女性客の心の片隅に、いつもホストに嫌われ避けられるのではないかという、不安のグレーの黒雲を抱かせるのも、長くつなぎとめておくコツでもある。

 このことにより、女性の心に鎖をかけ、その鎖から一歩でも外れることをすると、ホストから嫌われるという地雷を感じさせることにより、女性の心はホストに依存し、それが習癖になってホストクラブから離れられなくするのが、ホスト商法である。

  

 男性客にライン攻撃をかけ、いつでも返答するような気軽な関係になってしまうと、ホステスのすべてを知ったような気がして、かえって飽きあきしてしまう。

 私たちホステスとアイドルは、すべてをさらけ出した挙句、飽きられたらそれで終わりである。 

 いつも謎のベールに包まれていなければならない。

 この謎のベールこそが、ミステリアスに包まれた客との絆なのだから。

 万が一、家族が来店されたら「いつもご主人にはお世話になっております」と頭を下げるくらいのソフトな関係性を保つことが第一であり、口が裂けても対等の立場で「仲良くさせて頂いています」などと言ってはならない。

 そうすると、家族の方も「主人が家庭で平穏でいられるのは、もしかしてこのホステスのおかげかな」とホステスに必要性を感じさせたら、しめたものである。

 水商売は、決して家族を敵にまわすという非常訓練状態ー危険人物、逃げろーという関係性になっては、商売が成り立っていかない。


 橋野おじさんは、いつものように焼酎のお湯割りを一杯だけ飲んで、支払いをすませて帰って行った。

 橋野おじさん曰く

「俺みたいな心臓病は、いつ倒れるかわからない。いつも心臓の奥に爆弾を抱えているようなものだ。

 だからこの世に未練を残しておきたくないんだ。飛ぶ鳥後を濁さずというだろう。 

 この世に未練の糸がある限り、天国に旅立つこともできず、むしろ地獄から足を引っ張られてしまいそうな気がして仕方がないよ」

 ドアの外で橋野おじさんに握手をしながら、見送ることが通常になっているが、

その日の橋野おじさんは、背中に淋しさと不安の影を背負っているようにみえた。


 私は早速、橋野おじさんがいつもポケットに携帯しているニトログリセリンについて、調べてみた。

 心臓病の人は、ショックを受けたり激しい運動をしたり、まあ温度差によるヒートショックにより、急死することがある。

 飲酒、喫煙はもちろん禁止であるが、北風の吹きすさぶ真冬で、暖かい店で熱いドリンクを飲み、ドアを開け寒風に打たれた十分後、コロリと急死するということも十分あり得る。

 いつも、急死の危険にさらされているので、精神を平穏に保つことが必要であり、ケンカに加わらないことは必須条件である。


 その翌日、早速橋野おじさんが来店したのには、少々驚いた。

 いつも橋野おじさんは、週に一度のペースでしか来店せず、カラオケで五木ひろしや吉幾三のド演歌を楽しそうに歌う様子が、店でも評判になっていて、客のなかには大きな拍手をする人さえもいるくらいである。


 私は、いつもよりもほがらかな笑顔で「いらっしゃいませ」と橋野おじさんを迎えた。

 橋野おじさんはなぜか、いつもより精気がなさそうに見えた。

 ほおが少し蒼ざめている。

 心臓病の人は、小太りで血色がよく頬が赤いのが特徴だというが、橋野おじさんの身になにか起こったのだろうか?


 橋野おじさんは「いつもの半分の濃さの焼酎の水割りにして」と注文した。

 やはり、心臓病は進行しつつあるのだろうか。

 橋野おじさんは

「今日は俺の昔の夢話をするよ。実は俺、昔はギターでながしをしていたんだ。

 五木ひろきとは、そのときに知り合ったんだよ」

 ということは、もう五十年以上も昔の話である。

 どおりで五木ひろきの歌が堂に入っていて、まるで物真似のようにうまい筈である。

 橋野おじさんは、昔をなつかしむように目を細めた。

「ひろきと俺は、赤坂や六本木のスナックでよく顔を合わせたものだ。

 昔は、ひろきか俺かと言われるくらいに、ギターも歌も競い合っていたんだよ。

 しかし俺の方が、都会的でかっこいいなんて言われていた時代もあったんだよ」

 失礼ながら、今の橋野おじさんはどうみても地味なおじさんでしかなく、五木ひろきのような華やかさはまるで見受けられない。

 まあ、五十数年前、デビュー当時の五木ひろきのレコードジャケットを見ると、いかにも地方出身者の土のにおいがする。

 そこが素朴でよかったのであろうが。




 

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