第2話 スナック「いこい」勤務は過去の上に成り立っている

 私が以前、本で読んだ話であるが、 

 そういえば、高級酒場という場所は、異次元空間である。

 一般の世界では、自分の言うことをヘイヘイと同意する他人ばかりだと、かえってなにか裏があるのではないか、この人は自分にご機嫌をとり、なにか下心があるのではないかと疑ってしまう。

 だからこそ、異次元空間である酒場では、自分が王様であり、周りは王様に仕える家来であるという図式が成り立ってほしい。

 そのための代償として、居酒屋の百倍の料金を支払うのである。

 ビール一杯五万円とは、尋常の金額ではないが、売掛金にするケースが多いので、高級酒場は一見儲かっているようで、赤字のケースが多い。

という話が、頭の片隅に浮かんだ。


 そういえば、母親はいつも父親の意見に賛同せず、反発ばかりしていた。

 ときには正論で言い負かしていた。

 そりゃあ、浮気する父親が悪いのは事実であるが、こうまで理詰めにされると、かえって男性は引いてしまうのではないか。

 第一、父親としての威厳がなくなってしまう。

 私はそう思っていた。

 父親の女遊びはとどまるところを知らず、それに反比例するように、会社の方も傾いていった。

 そりゃあ、そうだ。社長である父が、接待と称してゴルフ遊びとクラブ通いばかりしているうちに、経理担当の女性が二重帳簿をつくって、巧妙に横領していたのだった。

 私は一度、父の会社を訪れたとき、その経理担当女性と会ったことがある。

 暗い顔をして、猫背気味に背中を丸めていた。

 私が「こんにちは。いつも父がお世話になっております」とあいさつすると、背を向けて聞こえないふりをしていた。

 二度目に「こんにちは」というと、経理担当女性は目を合わせないように、軽く一礼して、そそくさと私から去り、四つん這いになって廊下の雑巾がけを始めた。

 今時、モップを使わずに雑巾がけとは、ずいぶん古風だなと感心したと同時に、この女性は社長の娘である私と一切、目を合わせようとはしないということは、なにかやましい事情を抱えているのではないかという、疑惑を感じたのを覚えている。

 もしかして、四つん這の雑巾かけも、床に目を落とし、人と目を合わせないための手段ではなかったのだろうかと勘繰ったものである。

 

 しかし、その経理担当の女性も気の毒といえば、気の毒である。

 だって、五年間働いて給料は標準の三分の二しかもらえないなんて、ひどくケチ臭い話だ。

 父曰く「その経理担当のいいところは、会社の立場にたって行動してくれるところだった。皆からは嫌われていたが」

 なにを言ってるの?

 どうして安月給しか使われている他人が、会社の立場なんて考える必要があるの。

 しかも、退社しても退職金は一銭も支払われないのに。


 どうやら父は、床掃除をしたりうわべだけ、自分の都合のいい人を善人だと勘違いしていたようだ。

 私から言わせると甘いね。まるでワル男にひっかかる淋しい女性と同じじゃないか。

 しかしまさかこの私が、将来ワル男の一種ー悪質ホストにひっかかった女性を救う活動をするとは夢にも考えていなかった。

 

 スナック「いこい」の面接を受け、さっそく翌日から勤めることにした。

 しかし、スナック勤めは、私にとってはきつい仕事だった。

 酒は断っていたが、男性客の話といえば下品なY談ばかり。

 私はもじもじするだけで返す術もなかったが、男性客にすれば、中年女が妙に返すよりも、若い女性がY談に対して頬を赤らめ、もじもじする様子がかえって初心で新鮮にみえるという。

 やはり水商売は若さが命であるが、それをねたむ中年女ー呉田がいた。

 私に荷物運びをさせながら「あんたはバカで汚い女だ」

 そればかりを連発する。頭がおかしいのではないか。

 五十歳半ばのママさんが私に言った。

「呉田さんって、不幸な人なのよ。三人の息子を残して離婚させられ、精神疾患も抱えてるの。うちの店は、チャリティークラブじゃないけど、やはり不幸な女性を見過ごすわけにはいかないわ。

 だってスナックというのは、疲れた人や傷ついた人を慰め、明日への活力を与える場所でしょう。不幸な人を不幸なままにしておくと、その人は居場所がなくなり、やがて犯罪が起こるに決まってる。

 それを防ぐためにも、多少精神疾患を抱えていても、お客様に迷惑がかからない限りは、そういった女性を一度雇い入れた限りは、クビにしないでおこうと思うの。クビになったら、ますます自暴自棄になり、何をしだすかわからないものね」

 私は感心したように言った。

「そうですね。もしかして逆恨みされるかもしれませんね。

 今の世の中、二極化されてますものね。学生の世界でも、高価な塾に通っている優等生もいれば、不登校の生徒もいる。

 受け皿が必要ですね。そういえば今度大阪に、廃校した小学校を改造した夜間中学ができるそうですよ」

 ママさんは昔を懐かしむように言った。

「実は私も夜間中学の出身なの。外国人もいれば、不登校だった未成年者もいたし、元反社だったという人もいたわ。

 やはり勉強って大切ね。字も読み書きできなかったら、水商売も成り立たないものね。卒業するときは、これで自分の未来も開けたなんて光が見えたものよ。

 それに、夜間中学って妙なグループ交際とかもなかったから、クラスメートに変に気を使う必要もなかったし、のどかなものだったわ」

 私は思わず、頷いた。

 私は小学校以来、グループ交際などしたことはないというよりも、なじめなかった。クラス内で、個人で親しい子がいたから、それだけで充分満たされていた。


「いこい」のスナック勤めが一か月ほど、続いた頃だろうか。

 夜中の一時にスナック勤務を終えて帰宅する途中、私は自動販売機でブラック珈琲を買おうとしていたが、五百円玉を入れてもなぜか戻ってくる。

 すると、アイドル系の二十五歳位の男性が声をかけてきた。

「あ、この自販機、五百円玉はなぜか戻ってくるんだよな。困ったものだ」

「そうですか。有難うございました」と一礼をして、私はその場を立ち去ろうとした。すると彼は、百円玉を入れて私の好みのブラック珈琲のボタンを押してくれた。

 ラッキー、なんて親切な人だろう。

 しかし、何者? 新手のナンパかホスト崩れか。

 私は思わず、結構ですと言って、彼を制すると

「いいですよ。僕もちょうど今、ブラック珈琲を飲みたかったタイミングだったから。あなた、ひょっとしてあの角を曲がったところの、スナックいこいに勤めてるんじゃないですか。僕の母親が半年前まで、通ってたんですよ」

 本当かな。つくり話めいてるなとは思いつつも、私は一礼をして、そそくさとその場を去った。


 翌日、私はそのことをママさんに言った。

 すると、ママさんは懐かしむように目を細め

「もしかして、長沢さんのことかな。あの方はもう膵臓癌で亡くなったけどね。

 酒浸りになっていたところを、私が制したわ。

 長沢さんって、何回か息子さんを連れて、ここにやって来たわ」

 じゃあ、昨日の彼、長沢君の話はウソでたらめではなかったんだ。


 夕方六時、さあ、開店時間だ。

「いらっしゃいませ。あっ」

 なんと、昨日の長沢君が来店したのだ。

 地味なスーツ姿で

「ご無沙汰しております。昔、母親がずいぶんお世話になりました」

 ママさんは

「お世話になっただなんて。長沢さんは、小びんビール一本注文し、いつもカラオケで一、二曲歌うだけのおとなしい客だったわ。しかし、酒は弱かったわね。

 だから、私は何回かお替りするのを、制したことを覚えているわ」

 長沢君はなつかしむように言った。

「母が亡くなった今、時効だからお話しますね。実は母がこうなったのは、妹がホストにだまされたからなんですよ」

 私は思わず言った。

「もしかして今、深刻化しているホストの多額の売掛金問題ですか?

 恐怖の青色伝票立ちんぼまっしぐらだったりして」

 長沢君は感心したように答えた。

「まさにビンゴですよ。しかし、現代になってそれがマスメディアに取り上げられるとは夢にも思っていなかった。まあ、2023年7月頃から増加したからでしょうね。      ちょうどその頃、コロナも解禁になって、歌舞伎町にホストクラブが増え始めた頃ですよ」

 実は私もホスト問題を取り扱った報道番組は録画して、じっくり研究していた。

「玉〇キャスター曰く、若い女性を恋愛商法でとりこにし、法外な売掛金を請求したあげく、風俗に売り飛ばす。なんだか最初から計算済みのホスト商法といった感じがしますね」

 もしすべてのホストクラブがそうなら、全女性は恐ろしがって足を踏み入れないだろう。

 

 長沢君曰く

「昔といっても十三年前のホストクラブは、そんなのじゃなかったんだ。

 母親はときおり行ってたけど、使った最高金額はなんと九千円未満だったよ。

 もちろん色恋なんてあるはずもなく、母親はウーロン茶一杯で一時間で帰るというパターンだったな。自分の息子みたいな年齢のホスト君から、家庭の悩みを打ちかけられたりしたって言ってたな」

 私は思わず興味津々になって、聞き入ってしまった。

「ある十九歳のイケメン君曰く、中学二年の頃、自営業をしている父親が保証人になって行方不明になり、母親が働いて弟の面倒をみている。

 本人は美容学校を卒業して、金を貯めたいと思っているという話。

 また建築業を経営していた父親が、借金まみれになり、妹の面倒をみているという話。はたまた、自分は母親が十七歳のときの子供で、中学もあまり行っておらず建築業をしていたが、今はホストで金を貯めたいと思っているという話。

 しかし、なかには一流大学の子もいたけれどね」

 なるほど、やはりホストって家庭に事情を抱えた人が多いんだな。

 まあ、私も家庭にはあまり恵まれなかったから、スナック勤めをしながら金をためてるんだけどね。


 ふとそんな回想にふけっていると、ママさんからお呼びの声がかかった。

「るり子ちゃん。橋野さんからご指名よ」

 ママさんはこっそり私に耳打ちをした。

「橋野さんってときどきY談を話すけど、悪い人じゃないわ。

 それにるり子ちゃんのはにかむような、とまどった表情が初々しくてたまらないって」

 そうかあ、もしかしてこの初々しさが商売道具になるかもしれないな。

 私は橋野さんを太客ー多額の金額を使ってくれる客ーにしようと決めた。

 一本釣りー大変な太客をつかむことーでもいい。

 私は、長沢君を見習って身の上話を始めた。


「ご指名ありがとうございます」

 太平さゆ〇のような可愛い子ぶりっこの笑顔と、甲高い声で私は橋野おじさんの前で、焼酎のお湯割りをつくった。

 あまり酔っ払われたら困るので、あくまで薄くした。

「ねえ、私の打ち明け話を聞いて下さいます。

 橋野さんだから、打ち明けるんですよ」


 



 


 

 


 

  


 

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